シニスターの槍

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 日本には西欧の紋章制度がない。翻訳者はさぞかし苦労したと思う。それでも、紋章にかけた台詞回しは紋章制度を知っていてこそ真意が伝わるものだ。  シーンによっては、わかるようでまったくわからない──単に自分に読解力がないのか。はたまたシェイクスピアの深淵なる筆のせいか。 そんなふうに思っていた僕でも、紋章ルールを知った後に原文を読み直してからは、急に世界が開けたように明解したのを覚えている。 「シェイクスピアは他に類を見ない紋章通の劇作家だと言われているんだ」  原語本の背表紙を眺めている僕の耳に、一拍遅れてさっきの自分の声が戻ってきたのかと思った。 「──よし貴公が目にしても、この世のものとは思うまい。このおぞましきものがなければ、とても考えの及ぶところではなかろう。まさに殺人の紋章の極致、兜飾り、いや兜飾りの上の兜飾り、絶頂というべきだ……」  地の底から這い上がるようなその声の調子。台詞よりも、彼の持つ何かが一瞬だけ僕を戦慄(わなな)かせた。
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