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私は買い物帰りに例の奥さんと出会った。ベビーカーをを押しているから、今日は心が遠くに行ってしまっているのだろう。
余計なことは言わず、少しだけ世間話をして別れる。こうして会話する限り、普通の人なんだけどなぁ。そんなことを考えながらしばらく歩いた時だった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
背後からの凄まじい悲鳴に私は後ろを振り返った。その手元からベビーカーが離れて行くのが見える。
何があったのかは判らない。ただ、奥さんの手を離れたベビーカーは、ゆっくりだけれど確実に道の真ん中へ進んでいた。…そこに迫る車の真正面に。
急ブレーキの音が響く。それでも車は止まることができず、引っかけたベビーカーを潰す形で電柱にぶつかり、止まった。
もう一度、奥さんの絶叫が四方に響き渡る。でもそれは、私の意識にはほとんど届かなかった。
潰れたベビーカーの下にできた、赤黒い水溜り。
ご近所さんには子供はいない。ペットを飼ってるということもない。実際、近くで暮らしていればそういうのは判るし、外で出会って立ち話をした際、やはり気になって何度となくベビーカーを窺ったけれど、そこに子供も動物もいなかった。こういう時によく聞く、赤ん坊代わりの人形などさえ乗ってはいなかった。
なのに、電柱の下には謎の水溜りができている。いまだにじわじわと広がっていく。
その様子を、私はただ茫然と見つめ続けた。
…この件を機に、この夫婦はまたどこかへ引っ越してしまった。だから、あのベビーカーに何かが乗っていたのかどうかはいまだに判らずじまいだ。
ただ、近所に流れた噂では、やはりあのベビーカーには何も乗っておらず、運転手さんの罪は、ベビーカーと電柱を壊した器物破損ですんだそうだ。
あの日、私が目にした赤い水溜りは何だったのか。それを知る術は多分どこにもないけれど、あのかわいそうな奥さんの心が、この先、少しは救われてくれますようにと、事故現場を通るたびに今も思う。
ベビーカー…完
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