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ベビーカー
地元に就職が決まって帰省し、母と散歩がてら買い物に出た折り、一人の女性と会った。
二年前に近所に越してきたご夫婦の奥さんで、母とは馴染みだからついでに挨拶を交わした。
三十半ばくらいだろうか。上品な印象の綺麗な人だ。礼儀も正しく、帰り際もにこやかに頭を下げていた。
ただ、気になることが一つ。
奥さんの押していたベビーカー。厳重に日除けがされ、いかにも大切に扱われているのに、肝心の赤ちゃんの姿がない。
今日は理由があって連れて来ていないのなら、ベビーカーを持ち歩く必要はないし、実家に預かってもらっているとかなら、それこそベビーカーごと預けてくるだろう。
ベビーカーをカート代わりにしているふうでもないし、何だろう。
そう思い、立ち去った奥さんを見送っていた私に、母が小声で話しかけてきた。
「また会った時、余計なこと言わないように教えておくけど、あの奥さんね…」
ひそひそと母が語ってくれたのは、何ともやりきれない話だった。
さっきのご夫妻は若くして結婚したのだが、十年近く経っても子供ができなかったらしい。だから二人とも諦めかけていたところへ、十年目にして、待望の赤ちゃんに恵まれたそうだ。でもその赤ちゃんは、生まれてすぐに病気で亡くなってしまい、奥さんはすっかり心を病んでしまったのだという。
それでもかなり持ち直し、心機一転ということで、奥さんの実家が近いこの近所に越して来てのだが、時折何かがぶり返すらしくて、その際には、使うことのできなかったベビーカーに赤ちゃんが乗っていると信じきって、ああして歩き回るらしい。
旦那さん方から、そういう理由だから、あの奥さんがベビーカーを押して散歩をしている時は、上手く話を合わせてほしいと頼まれているそうだ。
それを聞いて、私は何ともやるせない気持ちになった。
私自身は結婚どころか彼氏もいないけれど、友達の中には、もうお母さんになった子もいるし、赤ちゃんを見させてもらったこともある。
待って待って、やっと授かったのに、その子があっという間にいなくなってしまうなんて、母親ならおかしくなってしまうのも無理はないだろう。
母に判ったと告げて、この先あの奥さんに出会って話しかけられたら、その時は話を合わせようと私は思った。
その数日後。
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