冷蔵庫と傷心旅行

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私は他の社員から渡された書類をパソコンに打ち込み、問い合わせのあった案件の確認を出先の営業社員にメールで送る。そうそう、この物件は結婚2年目の夫婦の新築物件、そういえばここに初めてやってきた奥さんはおなかに手を当てて5ヶ月だと言っていた。そのマタニティドレス同様にふうわりと膨らんだ笑顔は幸せいっぱいの証だ。そんな幸せを目の前にして私も来年はきっとこんな感じかと胸を膨らませていた。が、しかし。 ことの発端は先月の土曜日だった。発端というのは正確ではないだろう、彼の中ではとうに私への気持ちは冷めていて、新しい恋を始めていたのだから。3年も付き合った彼に別れようと言われた。はいそうですかと返事をできるほど簡単な関係ではない。仮ではあるけれどすでに式場も押さえて、指輪ももらっていたのだから。 ため息をつきながら力なく椅子に腰かけると、ドスンと予想以上の大きな軋みが室内に響いた。 「どした、榎本。夏バテか?」 所長は大きなモニターから飛び抜けている顔をこちらに向けた。所長も私も同じ干支だから、ちょうど一回り違う。妙に落ち着き感があって頼れる上司。かといってオッサン臭くはない。それは彼が独身ゆえのものだろう。襟の高いシャツにはグレー系のチェックがアクセントについている。第一ボタンが外れていたから彼の喉仏が見えた。 「いえ」 「元カレか? 返事のないところを見ると図星か」 「すみません、公私混同ですね」 「きちんと仕事してればそれでいい。いまはお客さんもいないしな。榎本は娘みたいなもんだ」 「娘って。私は所長が12で出来た子どもですか」 「ヘリクツを言うな。お前の親父さんには前の会社で世話になったからな、多少はオマケしてやるだけだ」 私の両親とつながりのある所長に、私は恋愛の話を打ち明けてはいなかった。でも将来を誓い合った恋人のことは職場の仲間としてうすうす感じてはいたと思う。金曜の午後にはウキウキして仕事していたし、彼が駐車場まで迎えに来たこともあったし、ランチタイムには分厚い結婚情報誌を左手で押さえながら弁当を食べたこともあった。どんな鈍感なひとでも私の浮かれた姿に気づかないはずはない。
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