冷蔵庫と傷心旅行

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ところが、その先月。彼は私の部屋に来るなり、土下座をした。酔った勢いで会社の子に手を出した、妊娠した、おろせと言った、しかし女の親にもばれて、そうはいかなくなった。結婚の話はなかったことにしてほしい、破談にして指輪もかえしてもらいたい、と泣きながら私に訴えた。 当然、私は認めなかった。絶対に別れないと言い張った。そしたらあっさり、今夜のところは帰る、と言い、彼はすっくと立ちあがり私の部屋から出て行った。なんだ、その程度の気持ちだったのかと私は安堵した。きっと会社の子とその親御さんにやっぱり恋人を捨てることはできません、と言い訳するための免罪符だったに違いない、と思った。私はソファから立ち上がって、彼を見送ろうと窓から外を眺めた。路肩に停めてあった彼の車はハザードランプを点滅させていた。助手席には座高の低い、髪の長い人間が座っていた。エントランスから出た彼は片手を振りながら、飼い主に尻尾を振るイヌさながらにスキップして車に駆け寄った。乗り込むとすぐに車は街灯の照る夜の住宅街に消えた。 それから彼から何度も電話やメールがあった。指輪を返してほしい、という嘆願書だ。私はいやだと返事した。それでもしつこく連絡が来るので私は彼の連絡先をブラックリストに入れた。着信拒否というやつである。しかし彼はどうしても指輪がほしいのか、とうとう会社にまで電話をよこすようになった。 私にストーカーするのではなく、指輪にストーカー行為である。そんなやり取りに聞き耳を立てていた所長は私に事情聴取をした。私は仕方なく所長にすべてを話した。そして彼の答えは当然ながら「いいから別れろ」だった。 ……そんな所長が私の失恋を知ることになる。 元カレが一昨日、やってきた。夕刻、真っ黒な雨雲から落ちてきた水滴がガラスを打ち付け始めたときだった。車道からの段差を急いで乗り越えたものだから、車はバウンドして駐車場に乗り上げた。運転席からぬうっと出てくると空を恨めしそうににらみながら、彼はオフィスに入ってきた。そしてスーツについた雨粒を振り落としながら、指輪返せよ、と言った。まるで”傘忘れたから貸して”というノリで。
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