生はまこと水物に尽きる

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  一瞬言葉を失って── 背の高い彼の 肩先を見つめる。 「今……なんて」 思考よりも先に 唇からこぼれた言葉は ひどく掠れてしまっていて、 声というより もはや溜め息だった。 ゆっくりと動く エレベーターの密室の中、 桃さまは頭だけで振り返る。 眼鏡の奥の真っ黒な瞳が、 じとりと刺してきた。 冷たさをはらんだ 桃さまの瞳の奥にある 深淵がそこから 顔を出した気がして、 動けなくなる。 エレベーターの壁面は 強化ガラスになっていて、 冬になりかけた 寒々しい景色が 私の背後に広がっていた。 視線に押されるまま、 私は強化ガラスに ふらりと身体を預ける。 桃さまの瞳の あまりの動かなさに、 深淵以上に彼の中の 闇の濃さが見えた気がした。 彼が体ごと 私を振り返ったことに 気付かないほど、 視線が闇に吸い寄せられる。 .
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