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なぜだろう、たった一晩しか経っていないのに、昨夜のような吐き出しそうなほどの苦しさは薄れていた。
うるさ過ぎる蝉の声や、暑苦しい真夏の日差し、文句が多い母親、といったありふれた日常に、安堵感を覚える。
ジンのことが、すっごく昔のようだった。
感慨にふけっていると、また携帯が鳴った。早速母親がかけ直してきたのだろうかと、顔をしかめながら携帯を開く。
画面に出た名前に、俺はもっと複雑な顔になった。
父だった。
「もしもし?」
『……光也、大丈夫か?』
「え?」
父と話すのは、久しぶりだった。一ヶ月ぶりだろうか。それなのにいきなり大丈夫か、と聞かれて唖然とする。
『お母さんが大慌てしてるんだ、光也が電話に出ないって。こんな時だし、お前に何かあったんじゃないかって父さんも……』
「なにもないよ! ちょっと落ち着いてよ、お父さん!」
どうやら混乱した母親は、父にまで俺のことを知らせたらしい。
そして父も同じように慌てて電話を寄越したのだろう。ベッドサイドの棚の時計を見ると、サラリーマンの父は働いている時間だった。
「父さん、仕事じゃないの? 電話してる場合じゃないっしょ? 夜にでもかけ直すから……」
『お前が連絡取れないって聞いたら、心配するだろう!』
別々に暮らすようになって、初めて聞いた父の怒鳴り声だった。
俺は怒られてショック、というより、ものすごく驚いた。
父も自分の大きな声に驚き、謝ってきたが、俺はちっとも嫌じゃなかった。それどころか、恥ずかしいぐらい嬉しくなってしまった。電話越しの父に伝わらないよう、隠すのに苦労した。
いい年して、父に心配されて嬉し泣きするなんて、格好悪すぎる。
俺は、父にも真面目に謝罪した。それから、母親にまめに連絡することを約束した。
父は母親と違って、いつまでもグチグチと文句を言わなかった。
『お母さんに心配かけるなよ』
最後にそれだけ言って短めに電話は切れ、 俺は素直に頷いた。
数日前まで、父にはすごく複雑な感情を抱いていた。ガキっぽいけれど、俺は父に愛されていないのか、などといじけていた。
それなのに今、前と変わらず自然に父と会話することができた。
ジンの優しいアルトの声が、聞こえた気がした。
『光也、お前はみんなに愛されて、生まれてきたんだよ』
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