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それは『最後のメール』というタイトルの短編小説であった。内容は三十歳になった僕が自らの不出来を呪って自殺する、という筋書きであった。話の中の男は、どうも精神を病んでいるらしくて、自分には未来が見える、と主張していた。やがて彼は狂人的な主張を日記に綴り、その日記を自らのメールアドレスに送信するようになった。
奇妙なことに、彼の書く日記は過去の自分に向けて送られていた。この小説はSF小説でもなければミステリー小説でもない。過去の自分とは、『未来が見えているであろう過去の自分』のことであり、それは他人の目から見れば、主人公の彼が作り出した架空の『僕』であった。
簡単に言うとこの小説は、過去の自分に向かって未来を予知できる現在の僕が、周りの人間に狂人扱いされ、苦悩する話だった。なんともややこしい設定の短編小説だ。物語の最後は、主人公がビルの屋上に立ちすくむ時点で終わっていたが、はたしてそれは終わりと呼べるものなのかわからなかった。もしかすると、一見飛び降り自殺をにおわせる描写も、この主人公が見た架空の未来の描写なのかもしれない。
僕はこの面白みのない小説を読破してしまった。ねじれた設定の読みにくい小説であった。
しかし、胃がんに蝕まれている現在、僕の心は複雑にねじれていたのである。余命は残りわずかだ。抗がん剤の投与によって数か月の延命が期待できるが、その延長した命の価値はいかほどか。やがて待ち受ける大きな苦しみを前に、僕は怯えていたのである。身辺整理などといい出しても、それは孤独と死への恐怖を紛らわせるための手段でしかなかった。何故なら僕は、あの小説の主人公同様に未来を知ってしまったからだ。自らの死を、これほどまで克明に意識したことは、未だかつてなかった。
読み終えると。すでに日が暮れていた。結局、身辺整理のつもりで部屋の片付けをしようと決めたが、なにも出来ないまま過去の思い出に浸ってしまった。残された時間は残りわずかである。が、僕は、その残された時間をすでに持て余していたのだった。
その夜、何を思ったか、僕は日記を書こうと思い立った。学生時代に書いた小説に触発されて、物を書く気になったのである。文字を綴るなら、俳句でも、短歌でもなんでも良かったが、僕には子規や啄木ほどの才能はない。僕に書けるのは乱れた短文だけである。
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