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「ええ、私は気の毒だなどとこれっぽっちも思っていません、いい気味だと、バチが当たったと思っています。人の道に外れた者には見合っていると。――こう言えば満足ですか」
「ついに言ったな」
「ええ、あなたが言わせたのです」
「ああ、長くかかったが」
房江は発止と慎を見返した。挑むように迷いなく、瞳は一点の曇りもない。
一歩も退く気のない、初めて見る妻の表情は険しく、固い。
しかし――美しい。
ここまで凜とした妻の表情は見たことがなかった。
一瞬怯んだ慎は指先を彼女の目の前に据えて、怒鳴った。
「いいか、覚えておけ。私の妻は茉莉花ひとりだけだ」
「何を世迷い事を」
澄んだ声が応える。
「正義は私にあるわ」
「正妻の正義か」
「そうです、そして義務も果たしてきました」
言葉を切り、飲み込んだ言葉は口にせずとも慎に伝わる。
あなたは果たしてこなかったけれど。
「義務と権利か――成る程、正妻の権利とやらか。くれてやる、名誉も何もかもお前が望むものを。だが、覚えておけ、私は愛する者のためだけに自分を捧げる。少なくともお前にではない」
うつむき、目を閉じた房江はゆっくりと面を上げた。
その表情に慎は瞠目する。
先程の美しさは影をひそめ、いつもの能面のような、何の感情も読み取れない房江に戻っていたからだ。
――この顔はどこかで見たことがある、いつだったか。過去の記憶を探る慎に彼女は口を開く。
「愛する者――口ではそう言うけれど、あなたは愛することを知らない人だわ。過去にも。たった今も。あなたは誰も愛していない」
「貴様は知っているというのか」
「少なくともあなたよりは」
「私は茉莉花を愛している、妻として」
ほほほ、と形の良い唇を開いて房江は笑った。
「ほらごらんなさい。何にもわかっていない。そうやって私を貶めたつもりなんでしょう? あなたは人を傷つけることは誰よりも上手、自分だけ良ければそれでいい人なのよ」
黙れ!
一喝より早く、彼の手の平は翻り、鈍い音と共に房江を打ち据えた。
女に手をあげたのは、彼の生涯で初めての事だった。
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