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僕はその夜、アパートを出て行く風花に、さよならも言わなかった。
風花はそれから1週間たっても、2週間たっても、帰って来なかった。
女性の遺体が発見されたというニュースを聞くたびドキリとしたが、どれも風花ではなかった。
きっとどこかで元気にしている。
いや、もしもよくない事が起こっていても、僕には何の罪もない。
そもそも僕に救える魂ではなかったのだ。
言い訳は、あとからあとから湧いて出た。
頭の中は、自分が傷つかないための言い訳のあぶくでいっぱいだった。
日が経つにつれて、そのあぶくは冷たい棘に変化して心臓あたりを浸食し、仕事にもまるで集中できなくなった。
1人きりのアパートに帰り、風花の気配を探す自分に冷笑する日々。
そして3週間が経ったある休日、僕は気が付くと風花が言った稲荷神社の森の一角に佇んでいた。
鬱蒼と生い茂った常緑樹の下に、錆びついた白いバンが放置され、その周囲には粗大ごみから拾って来たと思われるパイプ椅子やテーブルが配置され、夏ならばちょっとしたキャンプのワンシーンのようだ。
その椅子に座っていたのは、いつか見た、あの汚らしい老人だった。
そしてその老人の足元には、まだ歩きはじめて間もないと思われる幼い女児が一生懸命、老人の方へ歩み寄ろうとしていた。
小雪舞う曇天だというのに、女児はぷくぷくの頬に笑みを浮かべ、時折鈴を転がすような声をあげた。
着古したような半纏を着せられ、まるで教科書で見た昭和の写真のような格好だったが、僕はその女児の笑みにくぎ付けになった。
体が燃えるように熱くなり、発汗した。
「風花」
老人が僕に気づき、ゆっくり立ち上がった。
女児も僕の方に体を向け、まっすぐ見上げて来た。
柔らかな頬を紅潮させ、女児は満面の笑みを浮かべた。
それは本当に何の悩みも苦痛もない、幸せに満ちた笑みで、僕はそのあまりの幸福感に恐怖すら感じた。
風花なのか?
心の声に呼応するかのように、一生懸命僕の方に歩み寄ろうとした女児に、僕は思わず手を差し出した。
そこにある、曇りのない幸福が本物なのかどうか、触れて確かめてみたかった。
けれど。
「触るな」
それはあまりにも静かで、そして侮蔑のこもった冷ややかな声だった。
僕は体を硬直させ、老人を見た。
何か言い返そうと思ったが、何の言葉も出てこなかった。
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