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「―――――――おや」
ぴくり、と頭よりも体が先に反応した。ゆっくりと視線を動かすと、木の陰に隠れた門扉の傍に、暗緑色の着物を着た翠が立っていた、言うべきことはたくさんあったはずなのに、言葉が何も思い浮かばない。何も言わずに自分を見つめる優都に翠は少し苦笑した。
「とりあえず、入っておいで」
中に入るように言われても、どこから入っていいのかわからない。仕方なく先日来た時と同じように庭へと向かう。木々の間を抜け、視界が開けた。風に流されて桜の花びらが頭の上を舞う。
「…………綺麗」
桜なんて見慣れているはずなのに。何故だかひどく心が揺さぶられる。そっと幹に触れると強く吹いた風が足元に落ちていた花びらを舞い上げた。日の光に透けた桜の雨が降る様子はどこか幻想的で、一瞬現実味を失くした。
「――――お茶を淹れたんだけれど、どうかな」
気づけば翠が縁側に茶器や茶菓子を乗せたお盆を持って立っていた。
「あ……」
優都が迷っている間に翠は縁側に腰を下ろし、自分の湯飲みを手に取り、にこりと微笑んだ。
「今日は丁度、良い和菓子があるんだ」
「………じゃあ、いただきます…」
桜から離れて翠と同じように縁側に腰掛けた。差し出された湯飲みを受け取り、軽く頭を下げるも、なんとなく口をつける気にならない。夢と現の狭間に漂っているような感覚でぼんやりと桜を見つめる。
「――――――あまり、惹かれてはいけないよ」
低く落ち着いた声が空気を震わせた。一気に現実に引き戻される。驚いたまま翠を振り向くと、彼は桜を見つめていた。静かな声が響く。
「あれは狂い咲きの桜だ。魅せられたら、囚われてしまう」
「狂い咲き………」
「もう六年も咲き誇り続けている。あの木だけ、同じ時間を繰り返しているように」
翠がこちらに顔を向ける。視線が交わる。金縛りにあったように目を動かせない。
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