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からん、からんと下駄がなる
からから、と薬箱の轍がなる
空にはまだ日が昇り、街中には人々が活気溢れる声をあげて行き交った
長屋のあちこちから子供の声が聞こえ、目の前を走り去る猫が目に入る
菊一(きくいち)はふと、先に見える橋を眺めた
まだまだ、ここからは距離のある橋の袂にはちらほらと人影が
四ッ谷に続く大橋にはまだ人が少ない
これから日暮れにかけて、だんだんとそこを訪れる人間が現れる
とはいえ、これだけの真昼間にあの場所へ足を運ぶ人は限られる
例えば、この菊一のように
からん、からん
菊一の下駄がなる
からからと引く薬箱を、通り過ぎる子供が物珍しげに眺めた
街道を行き、大橋を渡る
四ッ谷と街道を結ぶ大橋の間には川が流れ、まるで常世と現世を分かつように離れていた
橋の向こう側には、巨大な門が
これが四ッ谷の大門
先に待つは世にも美しい傾城たちの廓
「よぅ、菊一さんかい」
「…」
門の前の男が親しげに声をかけてくる
馴染みの顔に、菊一はぺこりと頭を下げた
「今日もお勤めかい?あんたも忙しい身だねぇ」
「…」
「まあ、頑張ってくれよ。ここに来れる薬師なんてあんたぐれぇしかいねえんだからよ」
男は笑うと菊一の肩を叩いた
毎日顔を合わしているだけあって、男は気さくに菊一に声をかける
菊一も、言葉は交わさずとも男とは会釈を返すほどの仲であった
大門をくぐり、長屋通りを過ぎる
そのまま谷へと続く角を曲がれば、そこに広がるのは一本の川を間に通した遊郭の世界
いくつもの橋をかけ、谷を削るように建物が並ぶ
谷の奥に鎮座してあるのは、この廓を治める楼閣
四ッ谷の遊女・陰間の頂点に立つ、花魁のいる城だ
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