序章

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 川をのぼるように、菊一は薬箱を引いて歩いた この時間はすでに朝帰りの客もなく、遊女たちも各々自由に過ごしている たまに何処からともなく琴の音が聞こえてきたり、唄が聞こえてきたりする 甘味茶屋には若い娘たちが集い、世間話に花を咲かせていた この風景だけ目にすれば、ここが愛欲の巣である廓だとは誰も思わないだろう 「おや、菊一殿じゃないかい」  今度菊一を呼び止めたのは、高い女の声 振り返ると、湯屋帰りだろうか 桶と石鹸をもった女と少女がふたり 菊一に微笑んでいた 「この前はどうも。助かったよ」 「…」  そう言った女には見覚えがある 先日行った見世の遊女だ 確か、最近体の調子が悪いとかなんとかで薬を売った覚えがある 「あれからすっかり調子が良くてね。お陰で見世に迷惑がかからず済んだよ」 「…」  それはよかった、と 意思を示すように菊一は頷く 「…あの、ねえさん」 「ああ」  隣に立つ少女が女に声を掛ける その言葉に気づき、娘が菊一を見て言った 「悪いね、菊一殿。この子はうちの見世の子でさ…なずな、こちらは薬師の菊一殿だよ」  そう言って、なずなと呼ばれた少女に挨拶を促す 少女は菊一を見つめ、眉をひそめた 「ほら、なずな」 「…でも、ねえさん」  菊一がこくりと首をかしげる 「挨拶もできないんじゃ、うちではやってけないよ。それに、菊一殿にも失礼だろう」  そう咎められ、少女はようやく菊一に頭を下げた それに続き、菊一も一礼する 「ごめんなさいね、菊一殿」 「…」  謝る女に、菊一は首を振った 「じゃあ、あたしらはこれで」  こくり、と頷き菊一はふたりの背を見送った
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