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いや、日本代表ですら同列ではなかった。代表のユニフォームに袖を通し、ワールドカップでゴールを決めても、それはなによりもまず自分自身のためだった。そんな自分が子どものためにサッカーを続けるようになるとは、あの当時の自分には想像の及びもつかなかった。
とはいえ、下嶋はそれを恥じているわけではなかった。
自分には守るべき家族ができただけなのだとシンプルに考えている。その証拠に、クラブは今オフに、新たに3年契約を提示してきた。これこそは、下嶋が出した結果に対してクラブが下した、プロサッカー選手としての客観的な評価なのだ。
下嶋は手を後ろに着いて両足を投げ出すと空を仰ぎ見た。一点の染みもない、冬独特の青空が広がっている。エネルギーに満ち溢れた夏の空も好きだが、下嶋はこの青空が昔から好きだった。
「下嶋さん」
背中に声を掛けられたのは、2羽の鳥が視界を横切ったときだった。上体を捻って振り返ると、そこには初めて見る若者が立っていた。
若者はクラブのトレーニングウェアに身を包んでいた。
トレーニングウェアはゆったりとしたつくりになっているが、その上からでも引き締まった体をしているのがわかった。
若者は名乗ろうとはしなかった。
しかし下嶋は、名前を聞くまでもなく、目の前に立つ若者が誰であるかが不思議とわかっていた。もしかしたら、若者にも同じ思いがあるのかもしれない。
ふたりの間に沈黙が降り立った。
若者の視線は下嶋の顔に張り付いたままだった。下嶋も目を逸らさなかった。吹いてきた風が芝の匂いを巻き上げた。
どれほどの時間を若者と見つめ合っていたか、下嶋にはわからなかった。
こんな経験は初めてだった。妻の美弥子ともこんな長い時間見つめ合ったことはない。下嶋の中のなにかが、意志とは関係ないところで、若者から目を離させないでいた。
「一本だけ、おれと勝負してもらえませんか」
ようやく若者の口から出た言葉は、あまりに突飛な内容だった。
下嶋は主力としてクラブで長年プレーしてきたベテラン選手だ。いわば重鎮ともいえる存在である。そうした立場の者に、初対面で、しかもきたるべきシーズンに向けてこれからコンディションをトップフォームに持っていこうとするその初日に、いきなり1対1の勝負を持ちかける。プロの現場ではまずあり得ないことだった。
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