100人が本棚に入れています
本棚に追加
しかし、若者の不躾な要求に、下嶋は一切のネガティブな感情を覚えなかった。
むしろ、自然に腰を上げていた。若者は腰に押しつけるようにしてボールを抱えていた。
事前に示し合わせていたかのように同じ方向に足を踏み出す。下嶋が顔を上げるとイメージした距離感で若者が立っていた。
勝負はあっけなく着いた。
ドリブルで突っかかってきた若者のフェイクに見事に引っ掛かった。
体勢を崩した下嶋の右脇を、若者ははちきれんばかりの大腿を見せつけて抜けていった。
下嶋が振り返ると、若者はさらにスピードを上げてゴールに迫っていた。
左足を振り上げると、ペナルティエリアのすぐ外、左45度の角度から豪快にゴールネットを揺らした。
下嶋は若者が戻ってくるのを待った。若者は下嶋の目の前までくると小さく頭を下げた。
「時貞颯人です。ありがとうございました。これからよろしくお願いします」
時貞颯人との初めての出会いだった。
◆
ドアを開けるとちょうど美弥子が体を起こそうとしていたところだった。
「間に合わなかったか」
下嶋はささやくように言った。
「うん、パパが帰ってくるまで待ってるってがんばってたんだけど、ほんの少し前に寝ちゃった」
美弥子の脇では葵が小さな胸を上下させていた。座り直した美弥子が葵を抱え上げようとする。
「いいよ、おれがやる」
「いいわよ、大事な時期なんだし」
「これくらいなんてことないよ。せめてもの罪滅ぼしだ」
美弥子は膝に負担がかかるのではないかと心配してくれていた。
「そう、じゃあお願い」
下嶋は葵のそばに屈みこんだ。寝息が耳に心地いい。首と膝の後ろに腕を差し込むと左膝を支えにしてもち上げた。また少し重くなったようだ。全身でそれを感じながら下嶋は思わず頬を緩めた。
寝室にいくと葵を抱えたままベッドによじ登り、真ん中にそっと置いた。起こさないようにゆっくりと腕を引き抜く。寝顔を見ながらそのまま身を横たえた。
「ありがとう」
美弥子がベッドの反対側に座った。毛布を掛けておでこを撫でた。
「今日も晩御飯のときおりこうさんだったわよ」
「そうなんだ」
「ミッキーマウス様様ね」
葵がディズニーランドにいきたいと言い出したのは、昨年の秋頃だった。近所の公園でできた友達が、家族でディズニーランドにいったことを自慢していたのだ。
最初のコメントを投稿しよう!