第1章

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「パパも一緒じゃなきゃ絶対に嫌」。そう言って駄々をこねる息子を愛らしく思いながら、下嶋は随分と長い間、息子を待たせなければならなかった。  もし、普通の会社員であれば、息子の願いをすぐにでも実現させてやれただろう。しかし、Zリーグでプレーする自分にはとって、それはどう考えても無理な話だった。  Zリーグでプレーするプロサッカー選手は、まとまった休暇を年末年始に長くて1ヵ月半、短ければ2週間ほどしか取れない。  3月上旬に開幕するリーグ戦は12月上旬まで続く。リーグ終了後は天皇杯がある。天皇杯の決勝は元旦だ。1月中旬には翌シーズンに向けた自主練習を始めることを考えれば、その場合、オフは半月ほどしかない。    もちろん、ゴールデンウィークや夏休みといった行楽シーズンともZリーガーは無縁だった。むしろその期間は、通常より多くの観客動員が見込めるという理由で試合が増える。  下嶋も以前は、こうした環境を当たり前のものとして気にしたことはなかった。というより、もっとサッカーをしていたいと思っていたほどだった。それこそプロになる以前の中学高校時代は、文字どおり毎日ボールを蹴っていたのだ。  その意識が変わったのは葵が生まれてからだった。  子どもは驚くべきスピードでその世界を拡げていく。2歳半になる頃には周りにいる友達と自分を比べるようになり、自分も彼らと同じであることを求めるようになった。 「ハナちゃんが日曜日に遊園地にいった」、「リクくんがキャンプにいった」。どこまで意味がわかっているかはわからないが、そうした話を息子が口にするたびに、下嶋はその言葉の底にある息子の願望を聞かされるようでいたたまれない気持ちになった。  ようやく葵の願いを叶えてやれたのは3日前のことだ。  葵は本当に楽しみにしていたらしい。その前の晩は晩御飯の最中に一度も立ち歩かず、食べ終えた後はそそくさと準備を始めたという。    体には少し大きなリュックサックに、ミッキーマウスのぬいぐるみとブロックでつくった飛行機とともにおやつを入れた。「これが葵の分、これがママの分、これがパパの分」と言って、小分けにされたスナック菓子を3つ、最後に入れたのだそうだ。
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