第1章

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 ロシア語で怜が一刀両断した時、丸井がトレーを抱えて戻ってきた。鍋焼きうどんが四つあり、テーブルに置く。青年は笹木へ優しい視線を向けた。 「お前、ここで食べていくか?俺はそろそろ戻るが」  笹木はここで食事など、とんでもないというように立ち上がる。怜が美貌に苦笑を浮かべ、同じように立ち上がり話は終わりだというような視線をリヴカに向けた。今は駄目だと判断したのだろう。美貌の母親はため息を一つついただけだった。禮一郎が、あからさまに残念そうな色を浮かべる。 「お前、正月は戻ってくるんだろうな?」 「勿論、戻る訳がないだろう。では、よいお年を。いろいろありがとう、助かった」  怜は父親に告げ、母親へと柔らかい微笑みを美貌に浮かべてから背を向けた。丸井には初めからいなかったかの様に視線すら向けない。だが、丸井は怜を凝視するのをやめなかった。 モーターホームを出た怜は、笹木にやや不満げな表情を浮かべた。 「鍋焼きうどんなんて、なかなか食べられないのに食べてくればよかったじゃないか」  意外に日本食が好きな彼に、笹木は笑った。午後も走るときは、怜は殆ど食事をしない。レースの期間は炭水化物中心でエネルギーを補給する青年は、鍋焼きうどんに思いのほか惹かれていたらしかった。  レースがない時には、かなりの量を食べる大食漢だが、レースがあるときは殆ど食事をしない。身長が高い割に、怜は人種的恩恵にあずかってか、細身でしっかりと筋肉がついていた。運動量が多いため、食事の制限は行っていない。  コックピットに納まるのに、太ることは厳禁であるドライバーが多く、また無駄に筋肉をつけないよう自制する必要もあるのだが、怜はその点でかなり恵まれていると言えた。 「あなたが食べるなら付き合いますが」 「サイキとグリットファイアは鬼門だろう。BBRCも日本人のコックがいればいいんだが」  美貌に残念な色を隠しもせず、それでも優美に語る青年に笹木は笑いを零した。あのいたたまれない空間に笹木を残そうとしたのは、彼自身の繋がり以上に、笹木が彼らと繋がっていたからだろう。笹木はかつて禮一郎の秘書をしていた過去がある。そのため父親と母親からのコンタクトに一切応えない青年に代わって、窓口に立ったのは笹木だった。
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