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「…」
歩を進める度に強くなってくるのは、コーヒーの香りだ。
突き当たりで立ち止まり、顔を挙げると、目の前の扉には「給湯室」の文字がある。
…人がわざわざ足を運んだっていうのに、ブレイク中ですか。そうですか…
少々恨みがましい感情とともに、コーヒーの香りの漂う空気を一緒に吸い込んだ。
通常ならこのかぐわしい香りに心置きなく酔いしれるのだろうが、あいにく今はそんな気分になれない。
「失礼します」
「あら」
溜め息を吐いて扉を開くと、そこにいた女性は目を丸くしてこちらを見た。…が、それも一瞬のことで、すぐさまその目を細める。
「初めまして、でいいかしら?」
「大丈夫だと思いますよ」
つられて、日生も作り笑いを浮かべる。
「それにしても」
「?」
「課長ともあろうお方が、手ずからコーヒーですか」
一拍おいて口を吐いた言葉は、嫌味混じりの現状に対する意外性だ。
ちらりと視線を外して流しの上でドリップされているコーヒーを窺うが、彼女はその言葉を歯牙にもかけず微笑む。
「ええ。何かあった時にあらぬ疑いをかけられても困るから、二課では『自分のことは自分で』ということにしているの」
「ああ、いいですね、それ。是非、うちの上司にも見習わせたいものです」
つられて、日生も笑う。その顔は、名案を思いついた子どものように悪戯だ。
「…」
「何か?」
「いえ」
その時、一瞬自分を見る目が鋭くなったのを感じて、訊ねる。声の主である当人は、先程と変わらぬ微笑みを浮かべていた。
そう認識するのと同時に、身構える。
「それで、ここには何をしに来たのかしら。参事官のお花ちゃん」
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