温かな時間

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「初めて行きます、香嵐渓」 楽しそうな谷原さんの声が耳に届いた。 「そう? それは良かった」 「先輩は? 何度も行ったことがありますか?」 「ん? そうだね……子供の頃に家族と行ったし……大人になってからも何回かは行ったかな」 これ以上の質問をされるのは、お互いのためにもよくないと思いつつ、谷原さんの様子をそっと盗み見る。 よし、鈍感ガール最高だ! まさか、昔の恋人と行ったことがありますと堂々と言うのもどうだろうと思うわけだ。 記憶の彼方だし、僕は女子学生が言っているように別ファイルを作って昔の恋人の記憶をキレイに保存しているとも思わない。 ファイルは確かに保存されているけれども……パソコンの中のファイルがたまに壊れてしまう現象があるけど、それに近いものがある。 谷原さんが昔の恋人に寄せたであろう愛情と同じほどの熱量で、僕が昔の恋人を思っていたのかどうか……。 好きだったし大事にしていたと思う。 だけど、僕は別れを告げられても酔っ払って記憶をなくすほど乱れもしなかったし、心のどこかでそうなるだろうことを予期して覚悟もしていたんだ。 なんとなく、変わっていく空気が僕に覚悟をさせていた。 谷原さんはそういう空気を感じなかったのだろうか。 鈍感そうだもんなぁ……。 それとも、本当に青天の霹靂だったのか。 文字通りの意味で二股を敢行した挙句の出来事だったのだろうか……。 「今年の紅葉はイマイチらしいですよ?」 僕の思考を分断するのは、空気を読まない谷原さんの声だ。 「君って人は、今からその紅葉を見に行こうとしているっていうのに……」 「期待外れだったらガッカリするから、ハードルを下げてるだけじゃないですか」 「あぁ言えばこう言うね」 「女の人には口では勝てないって。脳みその構造上、そういうものらしいですよ」 違うよ、惚れてる相手だからだよ。 言えないね。 恥ずかしくて言えるはずがない。 「はははっ、先輩、黙っちゃった。やっぱり女の人の方が口は強いんだ」 絶対に違うと思う。 だけど、やっぱり僕は口を噤んだ。
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