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『もしもし、先輩?』
僕は大学の博士課程を終了した後、教授の口利きで豊橋の美術博物館に嘱託職員として働いていた。
電話の主、グッさんも大学の博士課程にいた頃はお互いに時間が合えばどこかで会うこともないことはなかったけれども、調子よく彼が公務員になった頃から会うこともほとんどなくなっていた。
珍しい人から電話だと思って電話に出れば、その声は親しみを持って僕を先輩と呼んできて長い長い学生時代を懐かしく思い出した。
「どうかした?」
『ちょっと人数合わせでお見合いパーティーに出てくれませんか?』
「やだよ」
『げっ。可愛い後輩の頼みだと思ってお願いしますよ! あっ、そうだ。谷ちゃんも来ますよ!』
「谷ちゃんって誰?」
『はっ? ほら、乙川で酔っ払って先輩と10年後に恋愛するって戯言を言った挙句にキレイさっぱりと忘れた白状なヤツ。』
本当のことを言うと、谷ちゃんとグッさんが言った瞬間に、忘れていた彼女を思い出したというのが正解だ。
すっかりそんな出来事を記憶の奥底にやっていたのを久しぶりに掘り起こされたそんな感じ。
あぁ、そんなこともあったなぁと。
バカな約束をしてしまったのは若気の至りだったなと。
そして、まだ結婚していなかったのかと意外だった。
僕は32歳。
グッさんと同じ代だったのだから谷原さんは30歳だ。
「僕は遠慮するよ。そこへ行くよりも論文を書かないと」
『いいんすか? 恋愛するんすよね?』
「……よく覚えてるね。僕でさえ忘れていたのに。まだ10年経ってないし、僕は莫大な借金があるから彼女のお相手にはならないよ」
『莫大な借金って奨学金じゃないですか』
「借金に変わりないよ」
グッさんからの電話を切って自分の机の引き出しを開けた。
あの日、谷原さんから受け取った指輪を久しぶりに取り出してみた。
これを谷原さんに贈った相手は、谷原さんのことを真剣に好きだったのだと思う。
わざわざ、指輪の裏に文字が彫られている。
それから、材質はプラチナ。
指輪のことには詳しくないけど、プラチナは高いはずだ。
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