水妖の棲む森へ

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「……君、君」 「ひゃっ!?」  一時間近く文庫本を読んでいたアンは突然、背後から肩を叩かれて跳び上がる。 「中学校の生徒だね。この森は立ち入り禁止だ。もうすぐ日も暮れるから、早く家に帰りなさい」  いつの間にか、彼女の背後には作業服姿の男性が立っていた。鳶色の瞳にじろりと見下ろされ、アンは体をすくめる。 「ごっ、ごめんなさい……」  反射的に頭を下げた。おそるおそる顔を上げると、ハンチング帽をかぶった恰幅の良い男性に既視感を覚え、アンは首をかしげる。 (あれ? この人、どこかで……)  一拍おいて、目の前に立つ初老の男性は中学校に在籍する非常勤の校医だと気付く。 「……サミュエル先生?」 「今回は見逃すが、次は学校に報告を……」  サミュエル医師は床に落ちた文庫本を拾うと、表紙を目にしてわずかに顔をしかめた。『魔女狩り ――弾圧と迫害の残酷史――』そう銘打たれた表紙には、女性が火刑に処される様子を描いた銅版画が載っている。 「……『魔女狩り』か。ずいぶんと難しい本を読むんだね」  差し出された本を受け取り、アンは恥じ入るように老医師から顔をそむけた。ブックカバーをしておけばよかったと、小さな胸に後悔が渦巻く。 「ごめんなさい……」 「何故、謝る?」 「こういう、残虐なことに関心を持つことは良くないって……」  両親の忠告がアンの脳裏によみがえる。  敬虔なプロテスタンであり、教育熱心な彼女の両親は娘がホラーやオカルト、中世ヨーロッパの暗黒史といった猟奇的なものに興味をもつことを強く戒めた。同級生も休み時間に教室で本を読む沙希を、根暗だ、オカルトマニアだと嘲り、囃し立てる。  少女が本当に読みたい本を一人で読むために見つけた場所が、この森の中の古小屋だった。
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