四、

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不安の種はそればかりではない。 これまで、地下にある水牢へ入れられた者は、例外なくアッピウス家が所有する奴隷であった。 だからこそ、際限の無い暴力と死が牢で提供されようとも、アッピウス家は法のもとで潔白であった。 ところが自由民を牢へ押し込めて死に追いやるとすれば、それが潔白として収まる道理はない。 クイントゥスが動揺を隠しながら、承知したとカトに返事をするかしないかという頃合で、耳をつんざく金切り声が番小屋をかき乱した。 カトが生糸のように滑らかな白髪が覆う頭を、体ごと素早く背後へ振り向けるやいなや、ユーリアが再度大声でわめいた。 「ちきしょうクズ野郎!なんであたしが牢屋に入れられなきゃならないのさ!」 「わめいても無駄だ。続きは牢の石壁にむかってやることだな」 「くそったれめ! あたしじゃ気に食わないってんならてめえが主人のシモの世話すりゃあいいのさ!」 カトの一言で怒りに火がついたユーリアは、首筋に血管を浮かべながらカトをののしり続けた。 平時には魅力的に整っているであろうユーリアの表情は紅潮し、歯をむき出して吠え立てる野犬の相に変じていた。 「野卑な言葉しか頭に無いようだな。体を売る事の他は能がないのだろう。せいぜい水に漬かって頭を冷やすがよい――売女め」 ののしりに対する返礼として、カトは“売女”と語気を強めて吐き捨てた。 ユーリアは言葉につまり、身を強張らせながら両目に涙を浮かべた。 恐らく、理不尽な扱いを受ける無念さとみじめさが、彼女の骨身にしみているに違いなかった。 クイントゥスは上司であるカトに取り立てて不満を感じていないが、その光景が繰り広げられていた最中は、無性に初対面の娼婦へ肩入れしたいような衝動に捉われたものだ。 ところがその直後、ユーリアは口をすぼめると、カトの顔へ向けてプッと唾を吐きつけ、涙声で啖呵を切った。 「あたしは売女じゃない。ユーリアって名前がついてるんだよ」 「なんて事を……もうたくさんだ! 連れてゆけ!」 カトは慌しく口のまわりを手のひらで拭いながら、奴隷たちに命じた。 さらに、クイントゥスを横目に見ると、無言のまま顎の先を動かして続くよう促した。 似合わぬしぐさには、卑しい女にあしらわれたカトのばつの悪さが透けて見えていた。
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