一、

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一、

文明は臨終の床へついた。 北海を挟み、ヒスパニアからブリテン島まで。 地中海を挟み、アフリカ北岸からイタリアまで。 黒海を挟み、マケドニアからバビロニアまで。 膨張に次ぐ膨張、拡大に次ぐ拡大。 ティベリス川のほとりに芽吹いた国家は周囲の異文化をことごとく飲み込んで、いつしか世界を象形していた。 その国土には幾重にもおよぶ街道が這い、あらゆる細胞へ生命を巡らす血管のごとく、強く、ゆるやかに脈打ちながら、人、馬、牛、ラクダ、ロバの手と背を借り、値打ちのある品々があらゆるところへ到着した。 驚くべき交通網の狭間には、数多くの市民たちの生活があった。 かまどで燻される獣肉の香りが住まいに満ち、食卓に平焼きパンが添えられ、一杯の果実酒が注がれるなら、彼らは幸せであった。 幾万の、幾十万の、幾百万もの人々が、果てない国のすみずみで、それと寸分違わぬ幸せを感じていた。 過去には、いくつかの戦いがあった。 が、血なまぐさい熱狂は長くは続かなかった。 為政者たちの苦心と知恵がつねに、恐るべき敵たちを打ち破ったからだ。 そうしたひと時を除けばいつも、人々の生活は無事平穏なものであり続けた。 ローマ帝国――類なき先進性を備え、栄華をきわめた帝国の崩壊を、果たして誰が予感できようか? 崩壊は突如として訪れた。 騎馬を愛する人面獣心の異邦人たちが帝国を蚕食し、北方の蛮族たちが、負けじと帝国に押し入った。 長大な防壁も、偉大な戦略も、略奪者たちを退けるには至らなかった。 ローマという名の巨人は老い、その両腕は凍り付いたように動くことはなかった。 不随の巨人にはもはや、略奪に抗する力は残っていないのだ。 末期のうめきをあげる巨人はすでに、内在する問題によって衰弱しきっていた。 勝利、征服、支配、栄光、同化によって成長した帝国は、侵入、破壊、分裂、腐敗、混乱のなかで崩壊を遂げた。 手足はもがれ、胴は二つに裂け、目耳はちりぢりになって巨人は姿を消した。 ローマという帝国、ローマという文明、ローマという世界が息を引き取ったのだ。 しかし、大地に落とされた巨人の肉のかけらは、目ざといハゲワシたちについばまれない限り、荒れ野のうえに姿をとどめ続けた…… 砂丘の淵から地中海を望む、レキムスの街もそのひとかけらである。
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