02 憧憬 ― 2年前 ―

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 人は、唐突に思いもよらぬ言葉を突きつけられた時、まずは自分の耳を疑うだろう。 「え……っと。洗髪が好きなのは、美容師としてとてもいいことだと思います……が?」  ずっと憧れ続けていた人気スタイリスト、松岡万嶺(あまね)が手を伸ばせば届く距離に立っていて、自分に話しかけている。  貢としては今この状況こそが夢のようで、もしこの場で目覚まし時計がけたたましく鳴って、このシチュエーションを強制終了させたとしても、これが現実とすんなり受け入れるだろう。  そんな憧れの存在が、自分に向かって、今、「好きだ」と言った気がした。  都心の表通りに構える人気ヘアサロン・エスカーサ。オフホワイトを基調とした広いフロアは常に多くの客とスタッフで賑わい、数あるセットチェアが空席になることはない。  そんな人気店の定休日、通りの喧騒が遠くに聞こえるがらんとした店内に、貢と松岡、ふたりでいる。  美容専門学校をこの春に卒業したばかりの貢がエスカーサにアシスタントとして内定を受けたのは数日前のことだ。  その際、初出勤前に説明をしたいからと、サロンの幹部でありトップスタイリストの松岡に呼び出されて現在に至る。  松岡万嶺、二十七歳。有名芸能人やファッション誌の撮影に引っ張りだこのこの男は、自身が手がけるモデルたちと肩を並べられるほど整った容貌の持ち主だ。すっきりと通った高い鼻梁と涼やかな目元はスレンダーな体躯も相成って中性的な印象を放っている。  貢が松岡を知ったのは、高校時代、家から近いという理由だけで選んだ男ばかりの工業科で、クラスメイトが思春期の好奇心で買ってきた馴染みのないファッション誌だった。  モデル写真の脇に別枠でレイアウトされた裏方の男は、中性的な容姿を裏切るようにファインダーの外へ鋭い視線を向けていて何よりも目を引かれた。
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