08 加用

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 そもそも三年付き合った男の名前も呼べなかった貢が、出会ったばかりの人間と蜜月の恋人を装おうなど、無謀ともいえる役回りなのだ。  さらには、目の前の男に「はぁ」と深い溜息をつかれてしまっては、自ら洗いざらい偽りの全てをぶちまけてしまいたい衝動にかられる。 「ど、どうかしました?」  全力で普通を装ったつもりだったが、不審さが伝わってしまっただろうか。  貢は明らかに表情を変えた加用を恐る恐る覗き込む。 「私には髪の良し悪しは分かり兼ねますが、久我の容姿……、特に、頭髪については、いつも悩ましく思っているのです」 「悩ましいって?」  加用は目を伏せ、盛大にふたつめの溜息を落とす。 「久我は昔から身なりには全く頓着しません。髪など、結えるほど伸びても全然気にも留めない。学生まではそれでも構いませんが、今は会社代表としての立場があります。多少は自覚いただきたいのですが、自身のこととなると、途端に杜撰になるので私も頭を悩ませているのです」  加用はよっぽど気に病んでいるのか、ひと息に話し切ると三度目になる溜息をつく。 「確かに、伸びっぱなし……、ではありますね」  久我と初めて出会った晩、顔の殆どを長い髪で覆い隠した男が目前に現れた時、かなり異様な威圧感を感じた。 それだけに、企業秘書として加用が懸念する思いはよく分かる。 「久我には度々進言していますが、生返事だけであの通り。身なり以外のことは卒なくこなしているのに、全く、あの方ときたら……」  加用はよっぽど困り果てているのか、表情こそそのままだが、口調は子どもを窘める母親そのものだ。  貢は加用のあまりのギャップに思わず噴き出す。 「……失礼しました。つい口が過ぎてしまいました」  加用はばつが悪そうに口を噤んだが、貢がまだ笑っているのを見ると、観念したのか口角の端だけで笑った。
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