153人が本棚に入れています
本棚に追加
/94ページ
「うぅっ、寒っ!」
久しぶりの外気に触れ、貢が心地よさを覚えたのはほんの一瞬だった。
二月の寒風が容赦なく吹き付け、貢は不本意なワインレッドのダウンジャケットのポケットに両手を深く突っ込んで、背を丸くする。
久我の恋人役として過ごす五日目の午後、貢は初めて屋敷の外へ出た。
『――私にはあの方がわからない』
昨日、加用が去り際に漏らした言葉が頭から離れない。
その後、顔を合わせても、加用は言葉を交わしたことすらなかったことのように、再び口を開くことはなかった。
――俺は一体、何を知らないんだ……?
久我は出会った晩にお互いについて語り合って以来、身の上について話すことはない。
それは、久我と貢が恋人として過ごすために必要のない情報だからで、恋人としてそばにいる以上、過去の恋人の話など、無粋というものだ。
貢自身も、この屋敷で過ごしている間、過去など一切持たず、まるで自分ですら知らない別人になったように思うことがある。
久我から与えられる甘く淫らな情愛は、お互いを盲目的に結びつけ、貢はフェイクの関係に溺れながら、今、向き合うべき現実から目を逸し続けさせる。
――そうだ。俺は、逃げてるだけだ……。
松岡がどうして突然結婚することにしたのか、理由を聞かなかった。
ただ唐突に突きつけられた言葉に驚き、動揺を拳に込めるだけして、その場から逃げ出した。
――確かにあの時、松岡は何か言おうとしてた。でも俺は逃げた。
携帯の電源も切り、日常の全てから自分を隔離して、松岡のことを考えないようにした。
今も、松岡から別れの理由を聞かされるのが恐いと思う。
同性同士というマイノリティな関係で、お互いの将来を重ねられない時がくるかもしれないことを、心のどこかでいつも恐れていた。
でも、どんなに怖くても、自分の恋の結末を見届けなくては、自分自身が前に進めないことも、頭ではちゃんとわかっているのだ。
最初のコメントを投稿しよう!