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昨日、加用に訊ねられて、改めて見渡した左手の傷跡の数々が、物言わず訴えかけてくる。
今の貢は、スタイリストとして自分を育ててくれたエスカーサという場所すらなかったことにしようとしているのだ。
――もし久我も俺と同じように、大切な何かから目を逸らしているとしたら?
生まれながらにして生き方を定められ、個人の感情を封じて生きる。
だから久我は、恋人だった男と、お互いの立場を考え、関係を断つことを選んだ。
しかし、本当にその選択肢しかなかったのだろうか。
『――君は知らないのか?』
冷静な男が見せた明らかな動揺が、貢に警鐘を鳴らす。
貢は松岡から逃げた。でも、久我はまだ間に合うかもしれない。
――考えるより動け、だよな。
貢が久我の恋人として過ごすのもあと二日だ。
昨晩も久我の様子に変わりはなく、帰宅早々に貢を腕の中に納め、一晩中、肌を暴かれ、とても話をするどころではなかった。
だからと言って、一度口を閉ざしてしまった加用から更なる事情を聞き出せるとは到底思えない。
しかし貢には、最後の望みとして、唯一思い浮かぶ場所がある。
全ての中心であり、根底に在る場所。
久我一族が代々祀ってきた――〝巡崎神社〟だ。
「……とはいえ、神社ってどこにあるんだろ……」
貢は昼食を摂った後、加用に「午後から昼寝をする」と伝え、首尾よく屋敷を抜け出した。
日中、屋敷の中は貢と加用のふたりだけだが、それだけに、不審な動きに気取られないよう、細心の注意を払う必要があった。
どれだけの効果があるか分からないが、布団の中に丸めた座布団を入れて、人ひとり分の膨らみを作る。そして、久我邸でいつも支度されている和装から数日ぶりの洋服へ着替え、部屋の縁側伝いに屋敷の裏へ回る。靴も朝方のうちに玄関の靴箱から回収しておいたため、難なく灌木が茂った庭に着地した。
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