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あの朝も、人目がないことをいいことに、松岡が頻りに指を絡めてこようとしていたが、照れくささが勝る貢は、手元で必死の攻防を繰り広げていた。
そんな最中に、偶然通りかかったこの道は、沿道の木々が自分たちを外界から隔ててくれているようで、云い得ぬ安堵感を覚えたのだ。
山岳部の朝は、軽はずみに出てきた自分を恨めしく思うほど冷え込んでいたが、一日が始まる前の澄んだ空気を松岡と歩くのも悪くないような気がした。
貢はいつもの調子で「寒い、ダルい」と腐りながらも、冴えた朝でもピンと揺るぎなく歩く男の背中を追うように歩いた。
『確かに寒いな。くっついとくか』
松岡はダウンジャケットの前を寛げ、貢の身体を後ろから包むように腕を回す。
当然、ひとり分のジャケットで二人の身体を包み込めはしないが、肌が近い分、暖かい。
『なんかいいな、これ。貢が近い』
ほとんど抱擁の体勢で、松岡はお互いの体温を共有するように、頬を寄せてくる。普段の貢であれば全力で逃れるところだが、深緑に抱かれた凪いだ朝が、意固地な貢を素直にさせた。
『お? めずらしいな。貢が大人しい』
『……うるせぇ。じゃあ離せ。寒すぎるしもう俺は帰る』
『待て待て。せっかくだしもう少し歩こう。あぁでも、この体勢じゃ歩けないな。しまった』
『ははは。それアンタが言うんだ』
少し名残惜しく思いながら身体を離す。でも、片手は松岡のジャケットのポケットの中で繋げたままにした。
吐息が白く凍てついても、繋いだ手だけは熱い。
この時が、唯一松岡と貢が空の下で手を繋いで歩いた朝だった。
「もっと素直になってりゃよかったのかなぁ……」
思い出がぶり返し、貢の目尻に、うっかり熱いものが込み上げる。
屋敷を出る際、冷えた外気に触れ、背に腹は代えられぬと松岡のジャケットを着込んだ。おかげで、否が応にも蘇ってくる持ち主の記憶のせいで、久我邸を出てからずっと感情が騒がしい。
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