09 交錯

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「だぁ! 今は凹んでる場合じゃないんだって!」 貢は頭を振って未練がましく付きまとう後悔の念を振り払う。今は、手が届かない相手より久我だ。  夜な夜な繰り返される恋人の行為の中で、久我は完全な恋人の顔をする。そして貢自身も、名前を呼ぶことを求められ、それに応じることに、言い得ない喜びを覚えていた。 『――貢。もっと呼んで。声、聞かせてよ』  もう、お互いの失恋を哀れむだけの関係ではない。そう思うことが、貢自身、なんと呼べる感情によるものかは分からない。  でも、知りたいと思った。  ――もう、何も知らずにやりすごすなんて嫌だ。 「えっと、確かこの先に――」  長く続いた並木道のトンネルの終わりが見えた。  ダウンジャケットのシャリシャリと鳴る摩擦音が、記憶の断片を呼び覚ます。  貢は何かに導かれるように駈け出した。  視界が開け、ゴツゴツと歪な岩が埋め込まれた歩道が始まる。岩の隙間に足を取られながら進むと、見覚えのある大きな石造りの鳥居が現れた。  額束を見上げると〝巡崎神社〟と刻まれている。 「ここ……、だったんだ……」  松岡と宛てどなく歩いた末に、大きな神社に辿りついたことは覚えていた。  朝靄がかった境内は、幽玄な空気に満ちていて、会話を止め、社殿の前で神妙に手を合わせた。  今は日も高い時間だからか、当時感じた幻想的な雰囲気は鳴りを潜め、とても同じ場所にやってきたように思えない。  午後の明るく開けた境内は、太い主幹に紙垂を巻かれた大きな楠がさわさわと穏やかな音を立て、心なしか賑やかだ。  貢は、一年前の朝をなぞるように、古めかしい楼門をくぐって社殿の前へ進む。  そして、ずっしりと重量感のある注連縄を目前にして、やっと過去の記憶がカチリと重なった。
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