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『それにしてもでかい注連縄だな。エスカーサも来年はでかいの付けるか。千客万来』
『や、そんなサロン、なんか入りづらいだろ』
くだらない会話をした。くだらなすぎて、幸せだった。
――あの時、俺は何て願ったんだっけ……。
揺れる楠が風をよこし、貢の頬を撫でる。
涙は流れていない。流れ出てはいないけれど、今は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできない。
一年前、まさかこんな別れが訪れるとは思いもしなかった。
この巡崎で、初めてふたりきりで長い時間を過ごし、初めて空の下で手を繋いで歩いた。
恋人になって、きっと、いちばん幸せな時間だった。
それなのに今の自分は、あの朝の抜け殻を纏うように持ち主不在のジャケットに腕を通し、ひとりきりで同じ場所に立っている。
「……ホントきつすぎ……」
呟いて、すぐに後悔する。
掠れた声が、自分をさらなる絶望の淵へ貶めるようで、視界がぐにゃりと歪んだ。
「そこのもし、ご本殿に何かおりましたか?」
「――え?」
突然背後から声する。貢は弾けるように振り向いた。
「おっと、失礼。驚かせてしまいましたね」
そこには、白の袴を穿いた男が、肩を竦める貢を真似るように、オーバーな身振りで手を上げていた。
神社の関係者だろうか。足元は間違いなく袴姿なのだが、膝丈まであるダウンコートにウィンタースポーツ用の大振りの手袋、首には口元まですっぽりと覆うネックウォーマーを付け、大きなボンボンがついたニットキャップをまぶたの上まで被っている。正直、かなり怪しい。
「何やらご本殿を熱心に覗いてらっしゃるようだったから、中に珍しいもんでもいたかと思いましてねぇ。社殿にはどこの隙間からなのか、よく動物が入り込んでは祭壇の神饌(しんせん)を持っていくんですよ。あ、神饌っていうのはお供え物のことでね。旬の野菜とたまに鯛なんかも上げるんです。神様はいいもの食べて機嫌良く居てもらわないと困りますからねぇ。まぁ鯛を上げるのは神事がある時だけですけどね。ホラ、ここ山ん中だから、鮮魚の調達が大変で」
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