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そもそも今日は、初出勤前の説明という話だったが、始まったのはバックヤードの配置や掃除道具の使い分けなどの雑用のレクチャーだった。
確かに新人として重要な仕事ではあるが、多くのスタッフが所属するエスカーサで、多忙な松岡が指導することではないことは貢にもわかる。
貢は戸惑いながらも松岡の声に耳を傾けていたが、松岡が空雑巾を手にシャンプー台の磨き方の説明に至ったところで、ふとその手が止まった。そして、少しの沈黙の後、小さく「好きだ」と聞こえた。
その声はあまりに小さく、貢は内心首を傾げながら、きっとシャンプー台にちなんだ話だろうと解釈し、「俺も洗髪は好きです」と答えた。
しかし、事態は全く異なったのだ。
「君に一目惚れしたんだ」
「…………へ?」
伏し目にしていた視線を真っ直ぐに向けられ、思わず気の抜けた声が出た。ずっと憧れてきた男の強い瞳が自分だけを見ている。雑誌の中から貢を捕まえた強い瞳が。
――やややややや。でもこれはナイでしょ。
「あ……、あははっ。松岡さんってそういう冗談とか言っちゃうキャラなんですねっ。意外すぎですよ。はははっ」
きっとこれは上司として初めての職場で緊張する新人をリラックスさせようと思ってのジョークだ。そう、思いたい。
貢はどうか一緒に笑い飛ばしてほしいと願いながら大げさに笑ってみる。
しかし、松岡は笑ってくれない。
「俺自身も、こんな気持ちは初めてで、どうしていいかわからないんだ。でも――」
「ひぃっ?」
身構える間もなく長いリーチが伸びてくる。
松岡はふたりの境界線になっているシャンプー台越しに貢の身体を掴むと、貢の上半身をリクライニングシートへ転がすように引き寄せ、あっという間にマウントポジションを取られた。
「ななな何っ? 松岡さんっ?」
「ずっとこうやって抱きしめたかった」
「だ、抱きっ!?」
為す術もなく押さえつけられたこの状況が、松岡は抱擁しているつもりらしい。
――この人、ホントに本気ってこと?
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