2人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
夏の夜。
一人の少女が窓辺に置かれた椅子に腰を下ろし、少々分厚い冊子を膝に乗せて俯いていた。垂れた黒髪でその表情は窺えない。
開け放たれた窓から蝉の音が遠慮無く響いている。そして、その鳴き声に紛れる様に少女が小さく口を開いた。
「わたし、また…」
その声は掠れ、感情などまるで削ぎ落としたかの様に冷ややかだった。
「消えちゃう、のかな」
糸の切れた操り人形の様な姿勢で俯き続ける。果たして息をしているのか、と疑いたくなるほどに些細な動きも見られない。
灯のない部屋で白く浮き出したレースのカーテンが緩慢に揺らめく。そして彼女の背を優しく撫でた。
「そんなの……やだ、やだよ…!」
突然、少女は自分の肩を抱き締め引き絞る様な嗚咽を漏らす。
「どうして、消えちゃうの?どうして…どうして……」
その問いに答える者はいない。黒髪が揺れる。ひらがなで“にっき”と書かれた冊子に丸い染みが一つ、また一つ現れて冊子の表紙を湿らせた。握り締める二の腕には指が痛い程に食い込み皮膚が赤らんでいる。
今日を過ごした少女はもうすぐ消える。おそらくは。
間接的に少女はそうなる事を知っていた。日記を読み返していくうちに嫌でもその事実を見てしまう。そして記された内容と自分の記憶を照らし合わせ、自分の中には何も無い事に気付く、全くに。例えそれがつい前日に記されたものであったとしても。
冊子の表紙裏には鉛筆でこう書かれていた。
“消える前に書いて、どんなに小さな事でも、どんなに退屈な事でも、どんなに中身のない事でも、それは本当にあった事なのだから。私の身に現実で有り得た事なのだから。一言でも良いから、お願い、書いて。そして教えて、私が、私に、私を。”
日記は去年の八月から始まっていて、昨日まで毎日綴られている。。そして今日の分も先程書き終えた。
窓の外では相変わらずの蝉の音が聞こえてき、夏を演じている。同じ周期でほとんど変わらない姿を見せるであろう季節の風物詩。彼らは続いているのだ。輪廻しているのだ。その過去は未来へ繋ぎ反映する。その一様の記憶は流れを持ち、途切れは、しない。
「…うぅ…っひっく…」
彼女が感じているものは無に帰す恐怖であり、疎外された孤独であり、空白の懐古であり、愛した者への羨望でもある。
最初のコメントを投稿しよう!