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序 いつかの夏
父親は、眼の前にある小さな口からこぼれた言葉に耳を疑った。
……これってさ、なんか幸せそうだよね
繋いでいた手を不意に後ろに引かれ振り返った父親に、娘がそう呟いたのだ。
えんじ色のランドセルを背負い、娘は道端に視線を落としている。
その視線の先にあるのは、仰向けになった一匹の蝉だ。
蒼い体躯をしたその蝉は、透きとおった羽を地面に焼かれ、一見すると屍のようであるが、よく見ると前足が僅かに、限りなくゆっくりと、空を掴むように動いている。
とりたててめずらしくもない、夏の終わりの、どこか物悲しい光景だった。
しかし、間もなく息絶えるであろうその蝉を見る娘の目は、慈しみとも羨望ともつかない、憂いをまといつつも恍惚とした色を帯び、およそ普通の小学生とは思えない表情を創りだしていた。
「これが幸せそうに見えるのか? ……お前には」
「うん、なんかこう……やり遂げたぞ、って感じ」
「俺には苦しんでいるようにしか見えないぞ」
「それはたぶん違うよ。だって、ほら」
娘はその場にしゃがみ込み、蝉に向かって優しく指を伸ばす。
その指が触れた刹那、蝉は目が覚めたように羽ばたき、舌打ちのように短い声をあげながら飛び去ってしまった。
蝉が視界の外に消えてから娘は続ける。
「ね? 意外とまだ元気なんだよ。あの子きっと怒ってるよ。いいところを邪魔されたってね」
我が子が見せた子供らしからぬ一面に父親は一瞬戸惑ったような顔をした。
しかし、それが容易に否定できるものではないことに思い至る。
「……ああ、そうかもしれないな」
そう言って父親はこの話題を終わらせた。
娘は満足そうに微笑む。
「あ、そうだ。次に引っ越すとこ、お父さんが子供のころ住んでたところの近くなんだよね?」
「ん? ああ……そうだ」
「楽しみだなあ。ねえ、どんなとこ?」
「めずらしいものは何もない。そんなに期待するなよ」
「そうなんだ。でも、今度はけっこう長く住むんでしょ?」
「そうなる予定だ。……そうだな、今度はお前も遠慮しないでたくさん友達をつくるといい」
「ほんと?やったあ」
「さあ、もう行くぞ」
「うん」
離れた手を再び繋いで、陽炎が揺れる残暑の道を、父親と娘はまた歩き出した。
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