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刺客
闇討ち、という言葉があるように、刺客は襲撃に夜を選ぶと思われがちである。しかし彼は朝の暗殺を常套とした。
無警戒の相手ならいざ知らず、敵対者を持つ者は当然刺客に対する用心をしている。そしてその警戒心は、夜に最も強くなるのもまた至極当然である。
(なればこそ)
人が襲撃に対する警戒を解く時間、闇討ちの危険から解放されるその時間、払暁こそが実は最も襲撃の好機なのだ。彼はその事を経験により会得していた。
時、折しも雪。
昨夜から降り続いた雪が一面白で景色を被い、門衛ですら冷えた手を擦り合わせたり欠伸をしたりと、眠気から覚めやらぬ有り様、ましてや早朝の慌ただしさに追われる屋敷の使用人達が、白の装束に身を包み、庭の外から弓での暗殺を狙う彼を見つける事など不可能である。
(もう少し近付こう)
事の成功を確かなものとするために、彼がそう思うのも無理からぬ事であった。今までに彼が亡き者としてきた者達同様、この屋敷もまた闇の緊張から解放され、今は弛緩の光の中にある。彼が手にする懐に収まるほどの小弓も、長年にわたって彼の仕事を支えた愛用の得物である。万に一つも外すことはない。
とはいえ、その小ささゆえに威力はやはり弱い。矢に毒を塗ってはいるが、臓腑に達するような深傷である方が致死率は高い。
息が白くならぬよう雪を一掴み口に含むと、竹矢来を組む紐を切って竹を一本外し、隙間から庭へと侵入する。事前に入手した図面によれば、暗殺の対象である屋敷の主の部屋は、この正面である。
二歩ほど前に近づいた所に石燈籠が立っており、その陰からならば姿を見られることなく矢を撃ち込める。後はそこで相手が襖を開けて部屋から現れるのを待つだけである。それももう間もなくの事だろう。計画の遺漏無きを確信した彼が、慎重に燈籠へと近寄ろうと踏み出した、その時。
突如視界の端で、平らかだった雪がもりもりと盛り上がるのが見えた。
(しまった)
完全な誤算だった。まさかこの寒さの中、雪が積もる前から刺客に備えて潜んでいる者が居ようとは。咄嗟に構え直した彼の小弓の弦が、そこから飛来した小柄に切断され、ベえん、という琵琶の如き音を発した。そしてそれが彼の耳にした最期の音となった。
凍てついた刃が己の喉を斬り裂く感触。痛みはない。むしろ小さな氷粒を飲み下すような心地良ささえ感じた。
妻の笑顔や、息子の笑い声が聞こえたような気がした。
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