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密偵
イカルガ朝の都、キョウ。スザク大路。
エミシの密偵であるモタイにとって半年ぶりの上洛となるが、政庁へと真っ直ぐに伸びるこの大通りの賑わいぶりは今日も変わっていない。小間物や反物の老舗、両替商、旅籠、居酒屋に食い物を商う露店。
だが長旅の休息で入った茶屋で耳にした、今のキョウの市井の民の関心事は、その賑わいとは対照的な、声をひそめたくなるようなものであった。
「カズマ様でも敵わなかったらしい」
「一太刀で首を飛ばされていたそうだ」
「またゴンベエか」
「いつまでこんな事が続くのだ」
聞けば、昨今キョウに辻斬りが出没し、民を恐怖に陥れているらしい。事の始まりは、キョウの治安維持の任に当たる検非違使という役職の男が、夜の見廻りのさなかに惨殺された事であった。真っ正面から一太刀で致命傷を受けての即死、というような死に様だったらしい。
(かなりの使い手だな)
夜、知らぬ人間に正面から近づかれれば、検非違使でなくとも警戒するだろう。身構えている相手を一撃で殺すには、相当な腕が要る。
ともあれその日を境に、辻斬りによる被害が増え始めた。相手は夜鷹の女であったり、酔っ払い、夜啼き蕎麦の親爺など見境無しであったが、ついには屈強な検非違使の三人隊が同時に皆殺しにされているに至り、ようやく中央が重い腰を上げた。
イカルガ武士団の名将キヨタダ麾下で、若いながらも忠勇随一との評判高いカズマという若武者が、辻斬り討伐を命じられ、二人の供を連れて意気揚々と夜回りに出たのが、モタイがキョウに着く前日の事であった。
今朝、そのカズマがホンノウ寺という廃寺の門前で頭と胴を分断され、鴉に啄まれているところを発見された。供の者達に至っては、太刀を抜く間も無く斬られており、つまり辻斬りは手練れの武士三人を相手に、最初の二人を抜刀もさせずに斬り捨てていた、ということになる。
「未だ殺された者以外にその正体を見た者がいないんですよ」
噂話の好きそうな茶屋の女将が、行商人に身をやつしたモタイに耳打ちした。
「ははあ、それでゴンベエ、名無しのゴンベエですか、おっかねえ事で」
なるほど、姿無き暗殺者にはおあつらえ向きのあだ名である。だが、今回の潜伏の目的はあくまでエミシに刺客を送り込んだのが、イカルガである(若しくはイカルガではない)という確たる証拠を掴むことだ。辻斬りに興味はあれど、それはひとまず措くとしよう。
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