ある人物の思考

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価値観の多様化という価値観が氾濫する まるで自由の代名詞のように自由度ばかり重要度が高いかの様に重要視され彼方も此方も自由人が自由自在に渋滞して重大な事態を引き起こす時代になって、にっちもさっちもいかない。 ネット社会の価値観は多方面に可視化されその全てが平等、全てが正しいとされる中で、如何に多くの正しさが駆逐されたかを思い知る時。価値観の多様化を有り難がった全ての世論に一様に瑕疵があり、過剰な過信に良心の呵責を感じ、苛酷な舵取りを過去の良書や教義や道徳に戻すべきだ。 人が宙に浮いている。人は元々そういうものだ。定点を持ち難く、行動や思考の基準点を見つけても新たな価値観や中傷や批判に遭遇すれば、簡単に揺らぎ、折れ、定点は移動する。 ひとつの行動を取る時にあれも正しい、これも正しいなどと言えば何を選択すればいいか迷うばかりで時間も進路も真理も失っていく。場合によっては親は子供を殴る必要もあるし、場合によっては、先生が生徒を殴るのが必要な時もあるだろう。何でもかんでも子供の人権をばかり声高に謳う正義の面を被った馬鹿がデカイ顔をするのにはうんざりしている。先生が生徒を殴るひとつとっても、生徒が悪い場合、先生が悪い場合。先生も生徒も悪い場合。第三者が悪い場合。と、一つ一つ違うのに、何一つ精査する事なく、十羽ひとからげに"子供を殴るのは悪い"と無責任に無節操に発言する文化人は多い。それはそれで正義の名の元の一種の暴力だ。本人は人格者のつもりで話しているから堪らない。 彼らにはソクラテスの言葉を贈りたい。"私は何も知らないという事を知っている"所謂、無知の知だが、事象、事案の多様性に目を向ける事なく、1つの価値観を与える事を恥じないのは無知の知ならぬ無恥の恥である。
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