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そう言いながら、空いた右手で香久山は男の左手を握り締めた。ぼきぼきっと不自然な鈍い音がした。絶叫した男の指は、ありえない方向に曲がっていた。
なにもなかったように香久山は立ち上がり、汚れたズボンをはたいてにっこり笑った。
「本当に次は殺しますよ」
鮫島を支えるようにして香久山が歩き出すと、彼らを取り囲んで見物していた人垣が割れた。
いつも丁寧な言葉を使う男が見せた意外な一面が、鮫島をとても驚かせた。そして、前を行く香久山の華奢な背中が頼もしく見えた。
「あんなのどこで覚えた?」
「なにをです?」
「姫が特攻なんてと思ったこともあったが、あれならヒデより強いかもしれない」
「ああ……ヒモ時代のヒマ潰しで、いろんな道場に通い詰めた成果です」
「ヒマ潰し……」
「その足で料理教室にも行きましたけどね」
くすっと笑って香久山は振り向いた。
「コート、どこに落としてきたんですか?」
「───え? あ…さぁ…」
記憶にないという顔で鮫島は香久山を見た。おそらくさっきのどさくさで、肩にかけていただけのコートは落ちてしまったのだろう。
「まぁ、平気ですよね───寒くはないでしょ」
「ああ」
香久山は鮫島の手を引いて再び歩き出した。歩幅は合わない、歩調も合わない。でも、香久山が少し歩幅を狭くし、鮫島が少し歩調を速めると、二人のスピードはぴったり重なる。
人間関係も同じだ、最初から同じ価値観を持つ相手などいるわけがない。それでもその相手が大事なら、互いに歩み寄ればいい。自分のくだらないポリシーなんかより、相手の望みを優先すればいい。なにもかもが対極にあったこの二人でさえ、今はこうして同じ速度で歩こうと努力している。
「私はね、夕暮れ時が一日で一番好きなんです。だって季節を感じるでしょう……最近は随分と日が長くなったと思いませんか」
季節の移ろいに気を留めたこともない鮫島は、それでも眩しそうに目を細め、西に沈んでいく太陽を見た。
「ねぇ、凪───春ももう目前ですね」
路上に落ちた二人の影はまだ長く、今後も続く困難な道のりの長さを表しているかのようだった。
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