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ここで「じゃあ」と言って、その場を去れば良いものを、西田さんと二人きりになれる時を逃すのが惜しく無言で突っ立ったままでいた。西田さんもそんな佐藤に困惑したらしく、
「あのー」
と何かを訴えている。佐藤は恥ずかしくなって、
「あ、すみません」
と目の前に突き出ている地下鉄の入り口に向かおうとした。
「あ、そうじゃないです」
「へ?」
意外にも西田さんは佐藤を引き止めた。佐藤は彼女と目が合った時を思い出して、もうすっかり前転が得意になった心臓に落ち着けー落ち着けーと念じる。西田さんは会議の時とは打って変わって、勢いがない。ふわふわの髪に顔が埋もれそうだ。リップが大人しく塗られている上唇と下唇を吸着させて、粘液を行き来させる。佐藤は、これ以上西田さんが黙ったままでいると彼女の気持ちを読んでしまいかねないと焦って、
「あの、調子でも悪いんですか?」
と女性の扱いが分からない中学生男子が口走るような質問をしてみた。
「あ、いや、違うんです。えっと、その…あの」
「はあ」
佐藤は鈍感なままでいた。鞄を持ち直して、自分を落ち着かせる。彼女は一呼吸きめると、意を決して言った。
「あの、よければこの後一緒にご飯でもどうですか」
会議の時の彼女の目、どっかおデートでも行くのかなと思ったこと、他の社員が「西田さんには彼氏がいない」と考えていたこと、矢野さんから「佐藤さんかっこいい?って噂されてるんじゃない」と言っていたこと。佐藤の頭の中に、ぐるぐるぐるぐる渦を巻いていた。それらをガハハと嘲笑して太陽は燃えていた。
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