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泥水がスラックスの中まで染みこんで来たのにゾクリとし、誠一は咄嗟にその青年の手を掴んで立ち上がった。
やはり尻を打ったようで、尾てい骨がズキズキしたが、今はそんな事に構っていられない。
青年に助けられる形で歩道の内側に避難し、まだバクバクする心臓を深呼吸してなだめた。
「ごめん、……ぼーっとしてたみたいだ」
申し訳なさと格好悪さから、声がうわずった。
「いえ、無事で良かったです。この道、見通しのいい直線だから夜になると飛ばす車が多いんですよ」
20歳過ぎくらいだろうか。薄暗いい街灯の下でよく見ると、なんとも柔和で優しい顔立ちの青年だ。
そしてその声は、こんな状況にもかかわらず、穏やかでのんびりしていた。
「でも、ごめんなさい。さっき強く引っ張り過ぎちゃったみたいですね。寄りにもよって、転んだところにこんな水たまりが出来てたなんて。すっかりドロドロだ……」
「ほんとだよ。排水設計が全く出来ていない。市に抗議しなきゃ」
誠一が苦し紛れに言うと、青年は笑った。
「すぐ近くに僕の作業場があるんですが、そこで汚れだけでも落として行きませんか? そのままじゃ風邪をひいてしまう」
一瞬、断ろうと思って口を開いたが、改めて自分の汚れ具合を確かめた誠一は、愕然として申し出を受けることにした。
濡れただけならまだしも、彼が言う通り、本当に泥まみれだった。
このままではタクシーにも乗れそうにないし、歩く気力も残っていない。
そして何より、今は何となく、見知らぬ他人の優しさに触れていたい気分だった。
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