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空になったグラスを、かちんと音をさせて柏木はカウンターの上に置いた。
「───きみの分も俺が飲んであげようか?」
杉浦の中でなにかがぶつっと切れた。次の瞬間、後先をなにも考えず、引っ手繰るようにグラスを取り、量としては大したことはないけれど、一滴残らず杉浦は呷った。
「……これで満足ですか」
視界がぐらりと揺らいだ。
「伊周?」
杉浦の目に柏木の足が映り、そして次に靴が映った。
「伊周っ!」
驚いたように名前を呼んだ柏木は、杉浦の身体を抱き起こした。
「どうしたの、伊周───具合でも悪かった?」
柏木が言っていることなんて理解できていないだろうに杉浦は何度か首を振った。触るなと言っているのか、具合は悪くないと言っているのか、柏木には分からなかった。
気絶するように倒れた杉浦を背負って、取り敢えず柏木は自宅マンションに戻った。シングルの狭いパイプベッドに長身の杉浦を寝かせると、頭と足がつかえそうだった。
あの時、杉浦が倒れたことに気づいた中野渡はカウンターに駆け寄り、伊周になにしたのと柏木に言った。人付き合いが苦手な杉浦の唯一の相談相手だと自覚しているのか、中野渡は最初から柏木に責任があるという口調だ。俺はなんにもしてないよと言った柏木に、責任もって伊周を連れて帰ってねと二人をバーから追い出したのだ。
ちゃんと面倒みてよと言われてもどうすればいいのか分からず、応急手当のセオリー通り、柏木は杉浦の額に濡れタオルを置いた。もう既に何度か取り替えている。どうやら熱は無いけれど、これだけ顔や体を触っても一向に起きないのは少し異常だ。
「…伊周……」
少し癖のある杉浦の黒い髪に、手櫛を入れるように柏木は触れた。
「ぅん…」
少し開いたままの唇から声が漏れた。
「伊周? 気がついた?」
無意識に、杉浦はゆっくり声がした方に顔を向けた。
「伊周、伊周、大丈夫?」
少しずつ開いた杉浦の目に、心配そうに覗き込んでくる柏木の大きな瞳が映った。
「───ぁあ……貴方ですか…」
掠れた杉浦の声を聞いて、柏木はようやく少し安堵したように表情を緩めた。
「具合が悪かったのに嫌な言い方してごめんね───」
「貴方のせいではありませんよ……メガネ…」
伸ばした杉浦のてのひらに柏木は銀縁のメガネを乗せた。
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