<2>歩む速度

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「脳外の…脳外科の権威の先生の助手は……もう五回ぐらいやってる。やりたい奴は他にいくらでもいるのに、俺は先生の指名らしくて抜けられない。一年ぐらい前かな、きみに着替えを病院まで持ってきてもらったことを覚えてるか? あれからも一回やらされている」  総もグラスを取り、半分ほど飲んだ。甘い酒が総の気持ちを解してくれる。ようやく手に入れた我儘を言える相手が遠くに行ってしまうのは、どうにか平静を装っていてもショックが大きい。 「───もしかして、その権威の先生のお呼びでアメリカに行くのですか?」  すると葉月は小さく片眉を吊り上げた。 「さすが鋭いなぁ」 「それなら半年一年、いえ、長ければ二、三年は帰国できないかもしれませんね」 「そうだな───妥当な予想かもしれない。待っていてくれるか?」  総は葉月をちらっと見て、食前酒を飲み干した。 「貴方がいない間に恋人の一人や二人や三人ぐらいは作っておきます」  葉月は複雑な顔で総を見た。 「恋人の二、三人ぐらいその気になればきみならすぐにできるだろうが、俺が帰国したらきみは俺のところに戻るのか? それならいいよ」 「戻るもなにも一度だって僕は貴方のものになった覚えはありませんが」 「え、そうなの? 俺はてっきりきみは俺のものだと思っていたんだが」 「それは勘違いですね」 「勘違い? そうか…勘違いか……」 「貴方は僕を助けてくれましたけど…だからといって僕は貴方になにもできません。貴方はそろそろ僕なんかに構わず新しい人をお探し下さい」  料理がどんどんテーブルの上に並ぶ。それを葉月はみるみる腹に収めていく。巽はこういう食べ方はしないので、総は面白くなって見てしまう。巽だけではない、たまに一緒に食事をすることがあった宗政も、葉月のような食べ方はしなかった。こんな、なにもかも全て食らい尽くすというような。  巽から友人だと紹介された当時の日下葉月はまだ医大生だった。巽が総を友人だと紹介すると、葉月はなに一つ詮索せずに言ったのだ───巽のダチなら俺のダチってことでよろしくと。それから葉月は総を拒むことはない。全てを赦し、受け入れ、時には怒り、褒め、今は愛してくれている。総を最も愛しているのはおそらく巽だが、それは親としての愛情だ。十才で孤児になった総を引き取り、愛し、育て、今や巽の腹心の部下だ。
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