<1>その一歩

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「総くん、こっちだ」  開いた自動ドアから入ってきた長身の男に葉月が言った。 「悪いね、総くん───手術が続いて家に帰れなくて」  一分の狂いもなく、時間通りにやってきた早瀬総に、まるで拝むように両手を合わせて葉月は何度も頭を下げた。 「構いませんよ、お気になさらないで下さい」 「今度の休みには埋め合わせするから」 「だから本当に気にしないで。僕はぜんぜん気にしてませんから」  無表情に言った総は、右手のボストンバッグを差し出した。総のバッグだ。そこそこ高価なブランドものだが男性用ではなく女性ものだ。総の持ち物はユニセックスが多いが、その理由を葉月は知らない。サイフやカード入れにいたってはユニセックスどころか完全な女性もので、支払いの時なんかは、恋人のサイフを拝借してそこからしていると勘違いされているに違いない。  葉月はボストンバッグを受け取りながら思わず苦笑した。 「気にしてくれよ、総くん。本当は俺はこんなこときみにさせたくないんだがね、してくれる人がいないからきみに頼んでいるわけで、本当はさせたくねぇんだ」 「だから別に構いませんよ」  バッグの中身は下着や着替えだ。病院の売店で買えばいいのだが、どうにも趣味が合わないし、よく顔を合わせる売り子の女性に『日下先生ったらこんなパンツはくのね』などと思われるのも恥ずかしい。かといって、近くのコンビニに買いに行くなら、ちょっと足を伸ばして自宅に戻った方がいい。いや、いくつも手術が続き過ぎて、コンビニに行く時間すら惜しいのだ。そんな時間があるなら、おにぎりかサンドイッチでも食べたいし、五分でいいから眠りたい。  こういう切迫状況はそう度々あるわけではないが、普段は海外にいる高名な脳外科医が帰国すると、葉月は助手として借り出される。そうなると、拘束は一週間以上続くが、その助手役が事前に依頼されることはない。葉月が勤務する大学病院は、日本国内には拠点のないその脳外科医が、日本で執刀するための設備やサポートを提供している。患者は日本中にいて、彼の帰国が知らされると予約を取り、どんなことをしても集まってくる。ほんのわずかな振動すら耐えられないような重篤な患者でも、何日もかけてやってきて、近場のホテルで静養しながら手術を待つ。
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