<3>過去の澱

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 葉月は総を抱きしめたまま訊ねた、世界は変わったかと。もちろんなにも変わらなかった。あんなにも怖れていたのがバカらしくなるぐらい。  別れ際、葉月は来週も会おうと言った。今まで、数え切れないほど葉月に誘われ、食事をし、佐伯邸の近くまで送られて別れるということを繰り返したけれど、次の約束をしたことは一度もなかった。次の約束なんかしなくても葉月は季節ごとに総を誘ったし、たとえ二度と会うことがなくてもなんの問題もないような関係だったのだ。総にとって葉月は義父の親友に過ぎなかったし、葉月にとって総は親友の養子でしかなかった。真実はどうあれ、そういう関係なんだと思うことで不意の別れに備えていたのかもしれない。でも、抱き合った夜の後はそういうわけにはいかない。次の約束は重要だ。必ずまた会って、時間と体力が許せばまたあの行為に耽る。世の恋人同士と同じように。もちろん総は今まで一度もしたことがない次の約束に戸惑った。だからといって、二度と会わないなどという大人気ない返事はできない。ギリギリの譲歩案として、部屋を取らないならと総は言ってみた。葉月は薄く笑い、了解と呟いて頬に口づけた。またあれをやる前提で会うのは、総の神経では耐えられそうになかった。 「お待たせ、総くん」  おかげで今日は地下鉄の駅の改札を出た所で待ち合わせだ。いつもならホテルのロビーで待ち合わせるか、葉月が車やタクシーで迎えにくるのだが。 「いえ、待っていませんよ」  総はいつも通り無愛想だ。無愛想というよりは、あんなことをした後でどんな表情をすればいいのか分からなかった。たとえようもなく恥ずかしかった。急に愛想良く振る舞うのもおかしい気がしたし、甘えたような態度を取ることも考えられなかった。そもそも総は愛想の無い自分しか自分でも知らないのだ。ああいうことをしたからといって急に可愛くなれるわけがない。 「今日は約束の時間より五分は早く着いたのに、きみはいつも何分前に来てるんだ?」 「───いいじゃないですか、僕がいつ来ようと」  総はくるりと向きを変え、すたすたと歩き出す。行き先は分かっている。大通りに出てタクシーを拾うに違いない。
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