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昨夜遅く、明日は前に行ったことがある料亭に行こうと電話がかかってきた。料亭ならと総は安堵した。ホテルのレストランだと、一週間前の二の舞になりかねないからだ。それを前提に約束するのはまだ怖かったし、それを許しているとか期待しているなどと思われるのも嫌だった。
「総くん、きみ、身体は平気だったか?」
「平気ですよ」
「下痢したり出血したり吐き気がしたり夢見が悪かったりというようなことは?」
「何一つないです」
「じゃあ、逆に、疼いたりとかは?」
総はぴたりと足を止めた。
「葉月さん、余計なことを言うなら僕は帰ります」
「どうして?」
「なにもかもごちゃ混ぜにされるのは嫌です」
「なるほど───じゃあきちんと分けよう」
「……ええ」
ちょうど大通りに出たので、葉月は手を上げてタクシーを止めた。目的の料亭は駅からかなり離れたところにある。貴重な時間をウォーキングで潰してしまうのはもったいない。多忙を絵に描いたような外科医と、年中無休のヤクザの秘書は、少し会って夕食を共にするだけでも万全のスケジュール調整が必要なのだ。勤務医の葉月はまだ休暇を取り易いが、佐伯巽の行動に全てを支配される総はなかなか自分の時間を取ることができない。今回は特別だ。葉月が裏で巽に手を回していたので、総は簡単に休みが取れた。もちろんそんなことに総は気づいていないけれど。
都内の混雑した道から脱出し、郊外に向かってタクシーは走る。後部座席に並んで座った二人は、特に言葉を交わすこともない。不釣合いな二人を、運転手はきっと仕事上の知り合いだと思っただろう。昔馴染みで、一週間前に抱き合ったような関係には見えないに違いない。親しげな素振りを二人は全く見せなかった。いや、むしろよそよそしい態度こそが常のものだった。
タクシーは二十分ほどで料亭に到着した。予約していたのですぐ座敷に通される。古い武家屋敷を改装したというだけあって内部は素晴らしく堅固で、佐伯邸とよく似ていると、総は前回と同じ印象を抱く。
「昔……何度か巽とここへ来た───きみとも一度だけ来たな」
熱い手拭きで指先から手首まで丁寧に拭きながら葉月が言った。
「ええ、覚えています……僕はまだ中学生でした」
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