<1>その一歩

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 今の総は、獣王連合雀翔会佐伯組の後継者である佐伯巽の秘書だ。毎日毎日、顔を合わせない日なんて無い。どこかに消えることのなかった初恋の相手を、過去の思い出に変えるようなタイミングが総にはなかった。  あの日、いつもの季節の誘いで葉月と会った日、総は死んでしまうつもりだった。大量の薬を飲み、食事の最中に葉月の前で死にたかった。巽に嫌なものを見せる気はない。葉月ならいい。巽を間に反目し続けてきた葉月とは、まるで戦友のような気がしていた。いや、終戦してから何十年も経って再会した戦友のようと言うべきかもしれない。お互いにもう戦意はなく、今はただただ疲弊していた。誰の前で死んだら理由に気づいてくれるだろう───それを基準に考えると、総には葉月しかいなかった。当人の巽の前で絶命したところで、見当違いの理由ばかり上げて、巽は総の遺影の前で謝罪するに決まっている。自分への恋に破れ、生きる目的を失ったからだなんて気づいてくれる筈がない。気づいてくれるのは葉月だけだ。同じ想いを抱き、同じ絶望を経験した戦友だけだ。  今夜の夕飯は特上の寿司でも取ろう、もちろん葉月の払いで。  トイレ掃除と風呂掃除を済ませた総は、額の汗を拭きながらそう決めた。特上しか駄目だと言ってやろう。  総が死ぬと決めたあの日、葉月は躊躇いなく救命措置を施した。おそらく誰よりも総の自殺願望を知っていた筈なのに、死ぬことを許してくれなかった。巽に対する恋愛感情を捨てられない自分を、総は早くこの世から消したかった。死んでしまえば安心だ。自分でいうのも自惚れ過ぎだと思うけれど、巽にとって出来のいい養い子だった筈だし、優秀な秘書だった筈だ。そういう印象のまま死ねば、おそらく巽は悲しむだろうけれど、彼が思い出す記憶の中で永遠に生きられる。それでいい、そうありたいと総は思った。葉月は全て分かっていて、総が楽な道に逃げることを許さなかった。 「ただいまー、総くーん」  玄関から声がした。 「良かった、いた」  リビングを覗いた葉月が言った。 「家政婦は掃除していました」  いつも通り素っ気無く総が言うと、葉月はにっと笑った。 「家政婦さんとはエッチできねぇじゃねぇか」 「しなくていいです」 「俺はしたい」 「しなくていいと言ってます」 「うーん……取り敢えずシャワーしてくる」
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