<1>その一歩

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 何日も泊まり込みの監禁状態で手術の助手をさせられていたのだ、身体ぐらい洗いたいだろう。 「お湯、入ってますよ。ごゆっくり」 「帰るなよ、絶対」 「帰りませんよ、寿司食べるんですから」  すると葉月はそりゃあいいと呟いてリビングから出ていった。  総がここに出入りするようになったのはつい最近のことだ。付き合いだけは十五年と長いが、会うのはいつも外だった。もちろん葉月も私用で佐伯邸に来ることはなかった。何度か佐伯邸に来たことはあったが、それは何かがあった時だけだ。それ以外は、巽ですら葉月とは外でしか会わない。  総の命を永らえさせて少しして、葉月は総に合鍵を渡した。佐伯邸が息苦しい時はここに逃げてきていいからと言った。総はふらりとやってきて、あっちこっちを磨き、掃除して回り、ゴミの分別をし、ゴミが詰まったゴミ袋をベランダに並べ、一つ一つに「水曜日」とか「金曜日」とか書いた紙を貼って帰っていく。葉月は料理をしないので生ゴミはない。そんなことしてくれなくても好きに部屋を使っていいからと葉月は総に言ったことがある。すると総は無心になれる掃除が好きだ言った。そればかりか、いつのまにか、葉月が溜め込んだ医学書や資料、論文原稿などなど、専門外だから分からないだろうに、驚くほど正確に整理してくれていた。頭がいい子だということは分かっていたし、進学や留学を希望するなら金は出してやると言ったこともあったけれど、まさかここまで有能だと葉月は思っていなかった。こんなことだから巽は総を手放さない。総がいるだけで何人分もの仕事をしてくれるだけでなく、とにかく機密保持という面で信頼できる。逆に言うと、こんなに優秀じゃなければ、総は巽の傍から離れられた筈だ。ヤクザの秘書なんかじゃなく、一般の社会で生きられただろうに。  それでも、こうして葉月の家を訪ねてくるようになったのは進歩だ。どっぷりヤクザにつかったまま生きるのではなく、たまにはただの二十六才の青年として過ごせばいい。葉月は総をヤクザとしては扱わない。いや、ヤクザとしての総を知らないのだから扱いようがない。巽がいくら養い親とはいっても、今となっては総のことをヤクザの秘書として扱わざるをえないだろうし、総自身も部下として振る舞うことに馴れてしまっている。  その点、葉月と総にはなんの柵もない。
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