<1>その一歩

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 葉月のサイフから出した万札で支払った寿司は、七割強が葉月の胃に収まった。本当ならどこか外に食べに行きたかったが、葉月の体力は限界で、それに気づいていたからこそ総は出前をとった。それに、料亭やレストランなら、総は葉月と行き尽くしている。  十五年間、季節毎に、葉月は総をヤクザの屋敷から連れ出した。中学に上がるか上がらないかという頃から、総は巽の秘書のようなことを始めていて、ヤクザの世界のことに関しては誰より詳しくても、一般の社会のことは全く知らなかった。高校は、葉月の勧めで行くことにした。高校でできた友人たちは、私立だったせいもあるのか、一癖二癖ある連中ばかりだった。大学に行くことにしたのも葉月の勧めだった。巽がそう願っているんじゃないかと、季節の誘いで食事をしている時に言われたのだ。成人前に慌てて人生を決める必要はない、ヤクザになりたいならいつでもなれる。巽の秘書なら、現に高校に通学しながらしていたのだから、大学に行きながらでもできる。そう言われてしまうと、進学しない道を選ぶことはできなかった。  思えば、今や巽の恋人である速水数馬も、総が高校で出会った一人だ。数馬でいいなら僕でもいいんじゃないかと総は何度も考えたけれど、巽の前では一度だって口にしたことはない。佐伯巽は手に入らない。それは明白だ。親代わりとしての愛情は溢れんばかりに与えられたけれど、今の総が欲しいのはそれだけではない。抱きしめられたかったし口づけられたかったし、そして巽を抱きたかった。要するに足りないのだ。美しい愛情だけでなく、醜い愛も欲しかった。 「巽はどうしてる?」 「……変わりないですよ」 「きみは?」 「貴方の目の前にいるじゃないですか」 「変わりないのか? 平気?」  離れている葉月とは違って、いつも巽の傍にいる総は精神的ダメージが大きい。しかも巽は総の気持ちに気づいていないので、数馬とのことを隠すわけがない。  佐伯巽は妙な男だ。決めるまではぐずぐず考え込むくせに、踏ん切りがついてしまうと一切の迷いがない。恋愛という意味で数馬と付き合うことに最初こそ悩みもあったようだが、決めてしまってからは恥じることすらない。養い子の総と、恋人の数馬が、高校の同級生だったことに多少の躊躇いはあっても、自分たちが同性であることに迷いは無いらしい。
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