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「『懐かしい』は過去へ繋がる扉。
扉は重くて一人では開けられないのかもしれない。
厳重な鍵が掛かっているのかもしれない。
ドアノブがなく、向こう側から開くのを待つことしかできないのかもしれない。
錆び付いてびくともしないかもしれない。
そして、その向こうの景色が、良いものでないかもしれない」
ステージから正面で彼女が安心させるように相槌を打ってくれているのを確認できると、拍動が落ち着いていくのを感じた。
小さく息を吸い込んだ。
「それでも私は扉を開けたい。
自分のことは全てを知りたい。
そうやって生きていたい。
これからも生きていきます。
そういう想いを込めた一冊です。
一人ひとりの過去への扉を開ける鍵となれることを願って。
それでは、乾杯」
色とりどりのグラスがあちこちで軽い声で鳴いた。
こんなに心地いい鳴き声は人がたくさんいるところでしか聞くことができない。
それを鳴らす人々は笑顔である。
微笑、苦笑、仮面、完璧な作り笑い……と、様々であるが。
私も彼らのように、今、あんな風に笑えているのだろうか。
「先生、素敵なあいさつをありがとうございました」
「いえ。お忙しい中、出向いてくださってありがとうございます」
パーティー客の一人が媚を売るように近づいてきた。
あんなに早いもみ手を見たことがない。
交換した名刺には大手出版社の営業を妨害していることで有名な印刷会社の社長、と書いてあった。
「ただ、招待状をお渡ししていないはずですが、どうやってこの会場に入られたのですか?」
「忘れていらっしゃるのですか?招待状はいただきましたよ」
規模が大きいからか、誰を招いたかなど一々覚えていないと思ったようだ。
「では送った招待状を見せて頂けますか?」
「もちろんですよ」
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