モラトリアム・ノアール

10/10
前へ
/10ページ
次へ
惨めに打ち砕かれた後だというのに、その男の表情は私の胸をえぐった。 どうせなら最後まで憎らし気に嗤っていればいいものを。 彼が着る黒は、敬愛する占星術師である母親への、契りの色だったのかもしれない。 もとより、一瞬だってこの美しく冷徹な男は、自分のものではなかったのだ。 猶予を与えてこの高慢ちきな獣を、自由に泳がせているつもりだった。 でも違った。私の手の中には、最初から何もなかった。 そしてこれからも、何もない。 私は感情をそぎ落とし、ただ目の前の男を見上げた。 大声をあげて泣く代わりに。 由貴哉が、唇の端を少し持ちあげて、私を興味深げに見つめる。 「おまえ、良い表情してる。さっきよりも、15年前よりも、よっぽどいい」 ああ……。どこまで嫌な男なのだろう。 「なあ森下。もう一度キスをしようか。15年間、俺との約束を守ってくれたお礼に」 もう一度キスをしよう。屈辱と涙と自暴自棄の。 黒い魔物は嗤う。  15年前と同じ冷たい唇。けどあの日とは真逆。 震えているのは 私だった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

33人が本棚に入れています
本棚に追加