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歌を歌っているときはこの身体のことを忘れられる。
思いっきり新鮮な空気を吸い込んで吐き出す。それを繰り返しているうちに体の中がきれいになっていくのを感じるんだ。
心臓は気持ちの良いリズムをきざみ、血液はさらさらと音を立てて流れる。
ただそのリスクは大きい。拭うことの出来ない疲労感。それは日に日に大きくなる。
もう時間がないのかもしれない。
放課後、部活へ行こうとする僕を実が引き留めた。
「送っていくから家に帰れ。無理を重ねたって良いことなんてないだろ。」
僕は躊躇しながらも頷くと、実に連れられるままに家路につく。
「おまえの望みって何だ?」
その道の途中、実は前を向いたままおもむろに口を開いた。
「えっ?」
「今朝俺に瑞紀を頼むって言っただろ?おまえはそれでどうなってほしいんだ?」
どうやら実は『頼み』と『望み』を別のものとして考えているようだ。
でも言われてみればそうかもしれない。僕の望み、それは瑞紀が幸せになること。でもどうすれば瑞紀は幸せになれる?
「歌・・・。」
「なんだって?」
思わず口からこぼれた言葉に実が首をかしげる。
そっか、歌だ。
「僕、瑞紀に歌わせてやりたい。」
「瑞紀って歌わないのか?」
「身体のこと気にしてるみたい。でもさ、昔はよく一緒に歌ってたんだよ。」
まだ小学校に上がる前。僕も瑞紀も歌う事が好きで、幼稚園で教わった歌を何度も何度も繰り返し歌っていた。
「でも羽目外しすぎたって言うのかな・・・僕が倒れちゃってさ、それ以来あんまり歌ってくれなくなっちゃった。」
一種のトラウマってやつだと思う。
「だから僕の望みは瑞紀に歌を歌わせること。かな?」
「・・・そっか。」
そうこう言っているうちに僕達はマンションの前に着いていた。
実に上がってお茶でもと進めたけど、遠慮するといって帰ってしまった。
きっと僕にさっさと休めってことだと思う。
オートロックの扉を開け、エレベーターに乗り込む。
静寂の中でエレベーターの機械音だけが響く。
目を閉じると昔のことが思い出される。
幼かったあの日。自分達に架せられた何かにも気付いていなかったあの日々。
『先生にお歌褒められたんだよ。』
『僕だって上手って言われたもん。』
『じゃあどっちが上手に歌えるか競争。』
『いいよ。』
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